心のままに行動するための練習(2) ~日常生活の些細な選択の場で、心の声に従い選択する

選択には、大きいものから小さいものまで様々なものがあります。

大きい選択は「決断」と置き換えられるほど、重要なものとなります。

しかし大きな選択の場でいきなり「心の声に従って選択せよ」などと言われても怖いと思います。なぜなら私たちは、小さいころから、周りの人間が納得するような選択をすることを教えられてきたからです。

心の声にしたがって選択できるようになるには、手頃なものから、もしくは簡単なものから練習が必要だと思います。

よって最初の選択は、未来に大きな影響を及ぼすことがないような手ごろな場で気ままに選択しましょう。

例えば、あなたが車のドライブなどをしている時はどうでしょうか?

道を走っていると、面白そうなルートを発見したとします。普段なら、

「面白そうだけど、帰るのが遅くなるし、そっちの道はよくわからないから、いつもの道で帰ろう」

と考えていつもの道で帰ります。しかし、まずこの場面を練習の場に利用するのです。

多少時間は遅くなってもいいから、こちらの面白そうな道で帰ろう、と変化と冒険を友にして前にすすみます

私事で失礼します。

私はよく自転車で用事の帰りにそのまま軽いサイクリングに出たりします。

その時、いつもの漕ぎなれた道を離れると、周りには新鮮極まりない風景が流れ去ります。

いつも周辺を通り過ぎているはずなのに、見たこともないような景色に巡り合います。

サイクリングのような未来に直接関係ないような選択の場でなら、恐れずに選択できます。少しずつ選択の場を移していけばいいのです。

最初が肝心。最初の試みでも、今までと違った結果、違った景色が見られます。

いつもの選択と違った結果を、心地よいものととらえるか、不快なものととらえるか。その違いは大きな違いを生みます。その違いを楽しい、と思えたならば、かなり鍛えられている証拠です。

その楽しさ、味わってください。

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心のままに行動するための練習(1) ~心のままに行動する試みを制限する作用を知る

心のままに行動するための練習・・・と題して、日常生活で取り組むことができる手軽な方法で、心のままに動くための練習方法を紹介したいと思います。

「心のままに動く練習」は、不当な会社から超越するため未来に向けて行動するという習慣を作る手助けとなるでしょう。

歳を重ねるとなかなか心の命じるままに行動をする、ということができません。

心の中には、思うままに行動しようとするとそれを制限する作用が働くからです。

同じ会社で長年働いている方は、特にそのような作用が働きやすいのです。その会社が誠実で普通の会社であるならば、そのような作用が働くことは望ましいのかもしれません。しかしこの心のままに動くことを制限する作用は、ブラック企業のような不当な会社に勤める方にも作用します。

◆「ここでもっと先に進んだら、帰りはきっと大変になるだろう」

◆「~したいという理由だけでこれをして、一体どうなるというのだ。」

◆「やってみたい気持ちはあるけど、失敗して恥をかくのは嫌だからやめておこう」

てな具合です。

ブラック企業に勤めているなら、すぐに行動して新しい世界に旅立った方がいいのではないか?心の命じるものを明確にし、すぐさま行動すべきだ、と思うはずです。

しかし人間というのは、たとえどのような環境でも(もちろんあまりにひどいのはいけませんが)慣れた場所にとどまりたい、という習性を持っているようです。

心の声に従いブラック企業から旅立つための努力をするよりも、その場所にとどまる理由を見つけて、何も行動しない方がいいのです。

この「慣れた場所にとどまろうとする作用」は、思った以上に強力な作用です。

少し例を挙げて話してみましょう。

皆さんには、慣れた環境を強制的に旅立って(例えば『卒業』など)、新しい環境に進む(例えば『就職』など)経験があったと思います。

その時、皆さんは慣れた環境を懐かしく感じることはありませんか?

新しい環境に進むことによって今までつちかってきた人間関係もすべてゼロになります。もとからその環境にいた連中の「よそ者扱い」や、失敗した時のここぞとばかりの注意に、嫌な思いをした経験があるはずです。

そのような居場所のない、心の定まらない、不安に満ちた気持ちになった記憶がトラウマとなり、私たちの次に進むための決心を鈍らせるのです。

【心のままに行動するための練習】 と題する記事では、心のままに行動するためのヒントを、軽いものから進めていこうと思います。

日常生活の中で新しい思考パターン(心の声に従って決断すること)をもとに選択をしつづけ、その積み重ねがブラック企業から旅立つ時に大きな力になることが 【心のままに行動するための練習】  の目指すべき目的です。

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「本気で戦わない」戦いは負けるだけ・・・会社側に反撃をさせないための一撃をくらわすことに徹する

手合せ、試し打ち程度ならまだいいが、現実の戦いはドラマや漫画のように、手加減しても相手に勝ってしまう、などといううまい話はありません。

戦闘における威力偵察のような、目的を持った牽制以外、手を抜いた攻撃はすべきではないでしょう。

労働紛争において、「とりあえず反発してみよう」程度の決意・ノリでは何もなせずに時間が過ぎ、中途半端のままの気持ち・態勢の状態で相手(会社側)の容赦ない打撃を受けることになります。

実際の戦闘などでは、様々な偶発などの摩擦が生じ、説明しにくいですね。

ここは一対一の戦いを例にとり話してみましょう。武術の使い手同士の戦いです。

戦いの場で寸止めなどしたら、相手はノーダメージです。そして相手のその後の反撃でこちらがやられてしまいます。

どういうことかと言いますと、こちらの最初の一撃、、つまりこちらが最善の計画と戦法でつかんだ勝機に乗じた攻撃で相手を戦闘不能の状態にしなければ、ダメージを受けていない相手の次の攻撃によってこちらが戦闘不能にさせられる、ということです。

よく武術の達人が、面白半分の相手とまったく手合せをしないのもその理由だと思われます。攻撃する以上、相手に大きなダメージを与える手段を用いないと、相手の次の攻撃を防ぐことが難しくなることが分かっている。

しかし重大な覚悟もしてない相手にそこまですると、大きな問題となる。だからといって手加減して流す程度では、次の一手を防ぐことはできない。

よって武術の達人は、本気でない相手を相手にしないのです。

罪もない人が今目の前で凶悪犯に襲われているわけではない。守るべき人間が今まさに理不尽な人間の行いで傷つけられようとしているわけではない。

であるならば、その場はやりすごすことで、誰も傷つくこともない。だから何もしない、相手にしない。

かえってわかりにくかったでしょうか?

労働紛争も同じです。

ある不当な行為があり、そのことについて「絶対に認められない」とか「社員としての地位をかけて、戦う」というような固い決意をもって戦わない限り、その戦いの結果は見えてる、ということです。

こちらの攻撃を受けた後の会社側は、あなたが想像する以上の容赦ない反撃をしてきます。

法に精通した会社側専門家の登場、全従業員への密命によるシカト攻撃、言いがかりによる賃金の大幅なカット、まったく経験したことのない部署への強引な配置転換と厳しいノルマによる圧迫・・・・

これらの冷酷で残虐な会社側の一手を出させないためにも、こちらも周到な計画と断固とした決意で、全力の先制攻撃もしくは反撃をするのです。そしてその一撃で、相手の立場を少しでも不利に陥れること。

逆にそこまで強い決意を持てないようなケースならば、なんとかして戦わずにその場をやり過ごすなどの別の方法を考えると良いでしょう。

何もしなければ、当該不当な扱い以上の不利益を受ける可能性は低くなります。

その場をやり過ごし、態勢を立て直し、容赦ない打撃を与えられるようになったら、その時に攻撃をすればいいのです。

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職場イジメに対する心構え ~戦う決意をした女性社員の「お局」に対する叫び

社内イジメの担い手として、欠かすことのできないお局様。

あなたはなぜにそれほどまでにお局様を恐れるのでしょうか?

すこし考えてみたいと思います。

お局様に嫌われると、その瞬間以後、お局とお局に逆らうことのできない意気地なしの同僚らよるいじめが始まるからです。

それが何よりも恐ろしいから、皆一生懸命、お局様の機嫌を取ります。

しかしお局という井の中の蛙は、人にちやほやされて、気を遣われ、他人に気配りをする、という思いやりを忘れています。

人に文句をつけたくてしょうがありません。

人間は誰でも自分が一番正しいと思っている生き物です。私もそうですし、あなたもそうです。しかし人に対する配慮から、公の場では心配りを見せるのです。それが普通です。

しかしお局は心配りを見せる必要がないから、人を傷つけることもなんでもかんでも言いたい放題なのです。

インターネットの掲示板やコメントを見てください。顔が見えないのをいいことに、人を見下したどうしようもない意見があふれんばかりに投稿され続けます。

フェイスブックですら、顔の載せない投稿者の意見は、傲慢で不愉快ですね。

配慮をしない人間の暴走は、もはや止めることはできません。

お局に嫌われないようにすることは至難の業。嫌われないためには、お局の意見にイエスマンになって、一緒にイジメに加担するか、見て見ぬふりをしつつ媚を売るか、だけです。

でも、それができない人だから、あなたはこのブログを見てくれたのだと思います。

お局に好かれることなど放棄しましょう。

お局には仕事上は普通に接します。相手が年上であったり、職場の先輩であるならばそれに対しての敬意は払います。しかしそれだけです。

理不尽な行為に対しては、きっぱりと不快な気持ちを伝えます。

『そんなことをしたら、社内で生きていけない・・・・』

そんな意見が聞こえてきます。わかりますよ。

生きていけなくなります。しかしもはや「賽は投げられた!」のです。

お局を前にして、言いましょう。

「あなたの理不尽な嫌がらせに、屈服するつもりはありません。あなたはこれからも私を同僚ぐるみでいびり続け、私を退職に追い込むかもしれません。しかし私は、たとえ退職に追い込まれても、必ずあなたのその行為の責任を追及する覚悟です。勝ち負けは問題でなない。たとえお金を多く失おうとも、時間を多くなくそうとも、辛い気持ちになろうとも、あなたのいじめを絶対に許さない。差し違える覚悟である。」と。

会社を変わるのは大変であります。

私も、不当な行為に屈し、変わったこともあります。しかし、我慢し続け己の信念を曲げて、いじめに加担するよりは、断然によかった。誇りを失わずに済んだのです。

「断じて行えば、鬼神もこれを避く」

鉄の意志の前に、間違いなくお局は心の中で穏やかな気持ちを失います。

周りのイエスマン同僚らは、あなたを批判するかもしれません。しかし「千万人と言えども我行かん」です。

己の行為を振り返って正しいと思えば、千万人が反対しようとも突き進め。進撃の歩を休めるな。多くの人間に笑われ馬鹿にされても、本当にあなたのそばにいる人は分かってくれる。私もあなたの勇気に共感するよ。誰がお局とその取り巻きなどにかっこよさを見出すものか!

子供の頃に思った単純な正義感に突き動かされて欲しい。社会のしがらみや平均値など意味もない。

ぼろぼろになりながらも、会社を追われながらも、お局の心に、正義の意志に基づいた一突きを食らわしてやれ。その一撃は、あなたの誇りをとりもどし、これからの生き方を決めるとてつもなく大きな一撃になるでしょう。

今まさにお局のいじめで何かを失くそうとしている人が読んでくれているのならば、届いてほしいです。

目標はただ一つ!この悔しい気持ちを、お局にくらわすこと!思いのたけよ、こん身の一撃となってお局にぶち当たれ!

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一つの夢を追いかけていた記憶~岡崎の町は、今もそこにあった

本当に本当に久しぶりに、岡崎の町を見下ろした。

もう何年となるだろうか?この土地を捨てて旅立ち、今は違う道を歩む私。

この土地に帰ってきたわけではありません。長い旅の途中で、ふと少し懐かしくなって立ち寄っただけ。これからの人生も、よりどころもなく、ただ遊子のごとくさすらうのみ。

十年近く、通った。一年の努力の結果を見るために、毎年通った。結果はすべて不本意なものとなったけど、今となっては「それも人生さ」。

この場所から見る岡崎の町は、いつも白くて、山も見えて、人の営みも見える。JR線が走っている。新幹線が通り過ぎる。矢作川はゆったりと流れていて、橋は車でいっぱいだけど、河川敷に目を向ければ、そこにはゆっくりとした時間が流れていた。

私は居心地のよさそうな場所を見つけゆっくりと腰をおろし、ふーっ、と静かに息を吐いた。なんともリラックスできる。そして、目の前に見える小さな青い花(おそらくオオイヌノフグリ)を見て、心の命じるままに後ろを振り返ってみた。

ここ数年、同じことしか書いてないようなビジネス本の毒にかかり、目標設定だ、金持ちだ、名を残すだ、等の野心めいた考えたちに心を揺さぶられていた。そんなもん、今はどうでもいい。

自分を見つめなおす時間を長く過ごしたわけではない。そのような時間を持つ時間の余裕もあまりなかったし、心の余裕もなかった。とにかく明日食べていくことを必死で考え、ただ生きていただけだった。修めるべき技術の練習だけは欠かさなかったが、生きがいやら、肩書きやらを求める気持ちはほとんど失せていった。

無いお金の中で、孤独の中で、すべき義務を淡々とこなす。毎日昨日よりも上達を目指して歩き続ける。今の自分にはそれだけで十分すぎる。これ以上、何を求めろと言うのか?

これだけいろんな考えや葛藤、そしてみっともない行いをしても、岡崎の町は見た目にはほとんど変わらず、あの時のように、ただそこにあった。

さあて、去るとするか。ありがとう、岡崎の町。今度来るときも変わらず私のままだろうが、それでいい。その時はまた、迎えて欲しい、岡崎。

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STAP細胞問題や眞子様ご結婚に見る、批判者の醜さ。この生き方だけはしたくない。

ひと昔、STAP細胞問題の渦中の人、小保方さんの記者会見がありましたね。私はこういった会見の記者の質問の仕方が大嫌いで、なるべく見ないようにしているのですが・・・・

私はなるべく見ないようにしているインターネット上の掲示板(むしろ絶対に見たくないとも思っている)には、これでもかこれでもかと手厳しい意見、酷評、人格批判、過去の暴き出しが繰り広げられています。

そのひどさと言ったら、目を覆うくらいです。

その中でよく見受けられるのが、「本人が出てきて真実を述べろ」という類の、自分は完璧な人間であるかのような上から目線の要求めいたコメントです。その要求の根拠は、「疑惑の論文で社会を騒がせたのだから謝罪しろ」というものです(ほかにも根拠はあるようですが)。

この女性研究員が謝罪する理由や筋があるのか、私たちには明確にわかりません。そもそも、まだ疑惑の段階であり、偽りであるかどうかもはっきりしていません。不正などしてないかもしれない。加えて、ネットの前で匿名で顔も出さず、素性もあらわさず批判している連中に、どうして謝罪しろ、研究員なんて辞めろ、なんて言われなければならないのか?お前たちは何様のつもりなのか?

そんな必要はありません。こんな連中に謝ったり、事の次第を説明する必要などまったくない、と私は思います。こいつらはネットの前で対岸の火事を決め込み、安全な位置から優越感に身を任せ人を攻撃することを楽しんでいるだけですから。

この研究員の過去の論文等の不備を取り出して、彼女の人格を否定する動きもみられるが、疑惑があれば何をやってもいいのでしょうか?よってたかって一人の人間を攻撃することは、「イジメ」以外のなにものでもない、のでは?私はこの現状(女性研究員ばかりが叩かれ、擁護の声がまったくと言っていいほど聞こえない現状)に激しい怒りすら感じるのです。

人間、完全ではない。過ちも犯すし、ずさんなところもある。悪魔のささやきに心流される場合もある。すべきことを先延ばしにして、ダラダラとほったらかしにしてしまうこともある。所属する共同体のルールを把握してないがために、その共同体に迷惑をかけてしまうこともある。

そんな経験、誰でもあることではないか?その人それぞれに、ユニークな性格上の特徴があり、それが欠点としてとられたり、長所としてとられることもある。この女性研究員に関して、彼女の特徴全てを取り上げ、ネット上にマイナスに評価して叩いている。これはやはりイジメだ、残酷で見ていられない。悔しい。涙がでる。いくら顔が見えない人間のコメントだとしても、この残酷なコメントを見た人間は、それが自分に関わる批判だったら、まず無傷ではいられない。

どうしてそれを分かってあげられないのか?「本当に落ち込んでいるかどうかなんて分からないだろ」という意見もある。しかし、では落ち込んでない確率が100%なのでしょうか?精神的に打ちのめされている可能性が少しでもあるなら、その点に配慮してわれわれ部外者は、せめてそっとしておいてあげるべきではないか?

なぜそういった意見が聞こえてこないのだろうか?

STAP細胞問題の一連の報道やそれに反応する大勢の人間の容赦ない意見がどうしても受け入れがたく、そして苦しかった。

小保方さんは、ご迷惑をかけたことに対する謝罪と反省を述べていたけど、そんなことを必要以上にする必要もない、と思いました。

みんな、そこにいる厳しい質問をする記者たちだって、テレビの番組でコメントする人間だって、不完全であり、100%キレイであることなどないのですから。皆、人に言えない闇の部分を抱えているし、心の中では、社会一般的に許されないような残酷な考えを持っていたりする。

小保方さんのしたことはなんですか?論文の不正?ねつ造?論文の不正など、よくあること。努力を重ねてきたであろうこの人だって、時に手抜きをしたり、我流に走ったりすることもあろうに。ねつ造?そんなこと、今の段階では分からないし、分かった時にそれなりの結果が伴えばいいじゃないか。なぜはっきりと分かってもいない今の段階で、顔も名前も明かさないネットユーザーごときに批判されないといけないのか?ましてはそんな連中に謝らないといけないのか?

小保方さんもそれなりに自分の世界で努力している。ネットユーザーだって、置かれた立場の中で、苦しんだり走り回ったりで努力している。何も変わらない。人のことなど、とやかく言うのはそもそもお門違いであり、空しい。

それは逆に、人に何か言われても、放っておけばいい、ということにつながるのではないか?ネット上での批判など、なおさらのことだ。顔も名前も見せない連中の意見など、雑音でしかない。そんなものに心を痛める時間は、本当にもったいない気もする。

誰だってミスするがな。誰だっていい加減なとこあるがな。誰だって人を不快にさせたりする経験もあるがな。安易さに走ったり、妥協することもあるがな。思い出して思わず恥ずかしくて辛い想いをしてしまう想い出だってあるがな。

小保方さんや眞子様は、あなたのままで。余計な御世話かもしれませんが、批判していない人もいる。少しでも届いてくれるといいなぁ。

今の心のままで、異議を申立て、STAP細胞の存在を訴え、涙を流し、あなたらしく日々を送ってください。性格上の欠点もあなたそのものであり、皆誰しもが、欠点も持ち合わせており、気にすることもなく、今の時期を過ごしてください。

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労働基準法違反・職場いじめで自分に負けないための考え方集



「時間は人を裏切らない」を信じている

「時間は人を裏切らない」・・・そんな言葉が大好きです

昨今、ネット上を見ると「効率よく行え」とか、「できない人はどこがいけないのか」たぐいの言葉があふれ、行動することだけでは何の価値もないことだと思ってしまうような風潮が感じられます。

しかし私は、いろんなことにチャレンジして、失敗して、それなりの結果が伴って、分かったことがあるのです。それは
・・・・とにかく行動することが何よりも重要で、何をするか、どのようにしなければならないか・・・は大して重要でない、ということ。

何をするか、とかどのようにしたらうまくいくかは、行動して、その人自身が失敗やら成功やらを繰り返して初めて分かることだと思った。人から言われてわかるものではないし、人から言われたことに縛られていると、自分なりの経験が得られないと思った。

当然時間はかかる。しかし、他人がお金と引き換えに教えてくれるノウハウよりも、自分で紆余曲折の末にたどりついたノウハウのは、どれほど価値があるか、痛感したのです。もちろん、その人が見つけ出した方法は、その人が自身が用いて、最大に価値を発揮するでしょう。

ネットの普及で、己が望む結果やモノを、性急に得ようとする風潮が高まり、時間をかけることが望ましくないかのような風潮が見え始めています。速いのはいいのかもしれないが、速さだけにとらわれてしまうのは、最も価値のあることを経験できない危険をはらんでいると思うのです。

このブログを読んでいる人は、労働法違反がらみのキーワードを打って、たまたま当ブログにたどり着いた、という人もいるでしょう。ひょっとしたら、今まさに、会社と仁義も慈悲もない戦いをしているかもしれない。

労働紛争にも、「時間は人を裏切らない」という名言が励ましとなってくれるでしょう。

労働紛争に時間をとられ、その戦いで勝利を得ることができなくても、貯蓄を失っても、家族のきずなを破壊されても、そこから何かが見えてくる。もちろん、辛い思いをしなければ得るものがない、と言ってるのではありません。どんな状況に追い込まれても、そこで経験したことがこれからの人生に何かしらの影響を与えるものとなる、と言ってるのです。

辛い思いにさらされた時間の長さは、経験した者にしか分からないほどの長さがあります。抜け出せないかのような時間のドロ沼の中で、もはや想い出すら思い出すこともできないくらい視野が狭くなり、憎しみや復讐心ばかりが増幅していく。

そしてそれらの後ろ向きな気持ちが極限に達した時、何かがフッと切れるような感じになり、どこかで区切りをつけたくなったり、相手(会社の経営者ら)に憐れみの感情が湧いたりしてくる。

その時湧き上がる感情には、人によって個人差があるようですね。多かったのは、相手に対する憐れみや、飽きの感情でした。

「もういい、この紛争はここで終わらせる。もう十分だ。私は十分戦った。言いたいことも言った。相手の交渉態度があまりに醜悪で、惨めさというか、かわいそうになってきた。この人間は、きっとこれからも多くの毒を吐き、それゆえ、死ぬときにはその死に顔に心の中で唾を吐かれるだろう。私は、そんな人間とかかわっているほど、暇ではない」

キリストやブッダの教えからすれば、このような考えなど、まだまだ悟りとは言えないでしょうね。でも、悟りをひらくつもりなどない私にしてみれば、こう言って紛争から去って行った人たちが、とてもまぶしく見えた。

苦しみに時間を割いたものだけが味わう、戦いの中におけるほんのわずかな甘い時間。嫉妬すら感じたのです。

「時間は人を裏切らない」・・・・シンプルな言葉だけど、きっと多くの労働紛争渦中の人が、自分なりの区切りや悟りを得るための、ヒントとなりそうです

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労働組合を利用して戦う場合の、シンプルで最低限のマナー

外部労働組の存在が世間一般に知られるようになったのはいいことだが、「弁護士に依頼するノリで相談に来る人」が増えたような気がします。

そういう人の特徴は

◆組合費を払ったから、あとはすべてを解決してくれると思っている。
◆組合専従者に対してお客感覚で接し、横暴な態度をとる
◆己の問題が解決したら、さっさと組合を辞めたいと考えている。

そのような人には、労働組合を活用して紛争解決をする道を勧めません。おそらく組合員も、このような人のために戦おうとは思わない。以下で、上の3点の特徴にからませて、労働組合を活用して戦う場合のモラルを述べましょう。

◆【組合費を払ったから、あとはすべてを解決してくれると思っている】
←組合を利用した紛争解決のためには、積極的に参加する決意が必要。

労働組合を利用した解決のためには,組合費を組合に納めただけでは不完全です。己の紛争はもちろん、他の組合員の紛争にも積極的に参加し、助け合う姿勢が要求されるからです。

依頼料を支払って後は丸投げできる という手段など、会社との戦いの過程では存在しません。例え法律家に頼む場合でも、依頼者自身が証拠収集等に積極的に動く決意を要します。

◆【組合専従者に対してお客感覚で接し、横暴な態度をとる】
←労働組合は、労働者同志の団結の機会を与える場所。加入希望の組合員のために辞を低くして商売をする組織ではない。

組合費を払ったことを理由に、対応した組合員らに対し、横暴な態度をとる人がいます。これは最悪ですね。このような人間は、そもそも組合が存在する意義を勘違いしています。

労働組合は、一人では会社に対し無力な労働者が、団結して大きな力を得るための機会を生み出す場所。そして団結して結びついた各労働者が、組合員各人の利益のため、もしくはそこに集う労働者全体の利益のため、共同して戦うための場所なのです。「組合費」は、それらの活動をするための最低限の資金を皆で補い合うための手段です。

組合費を払ったからといって、払った労働者がなぜ上の立場になるのか?そんな費用はそこにいる組合員は皆払っている。そんな考えをする労働者の方は、組合にはいらない。私の場合ですと、組合費を返還してで去ってもらいます。

立場の有利を理由に相手に対して横暴な態度をとるのは、不当な会社がしていることとと何ら変わりがありません。自らも立場の弱い者に横暴な態度をしておきながら、会社の労働法違反に「違法だから撤回しろ」というのは、あまりにおかしい気もします。そんな人間は身勝手であり、力になりたいとは一切思いません。

◆【己の問題が解決したら、さっさと組合を辞めたいと考えている】
←会社の不当な行いに困っている労働者同士が団結して助け合う、という組合の存在意義を揺るがす自己中心的な考え。

己の問題が解決したからといって、組合自体を辞めたいと考えるのは、やはり己のことしか考えてないですね。組合は、そこに集う者同士が、仲間や自分の脅かされた権利を団結した力で守るための組織です。

自分の問題が解決したらさっさと辞めたいと考えるのは、「己の問題が解決したら他人の問題はどうでもいい」という考えだととられても致し方ない行動です。もちろん、各組合員が組合を脱退するのは自由ですが・・・。

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労働組合・ユニオンを活用してブラック企業と戦う!



「シェリー」を聴いて、転がり続ける自分の生き様を自覚する

4月から本職が大打撃を受け、収入は減り、人のつながりはなくなり、ほとんどフリーアルバイターの状態となってきました。

誰にも言えない状態が続いています。私が接している人間のつながりは、今はアルバイト先がほとんどになっています。まさかそのアルバイト先で悩みを言えるはずもない。見栄を張っているわけではないですが、とても言えない。

それでも、毎日のすべきことは、次から次へとやってくるんですね。その場でうずくまり続けるわけにもいかない。本当は、そうして、思いっきり悩んで、人に悩みを聞いてもらいたい。でも、誰も、私のことは聞いてくれるわけもなく、また、巻き込むわけにもいかない。

勉強中、練習中、本職中、などの一人でいる時間は、やはり辛さがこみあげてきます。自身の経験から一つの目標を立て、地味で辛い日々の行動を積み重ねてきたが、結果が出なかったり、成果が大幅に消えてしまうと、さすがに落ち込んでしまう。

パソコンを使って行う作業の時は一人っきりだから、いつも音楽を聴いています。いつもはクラッシックなどを聴いているが、今はそれを聴けない。今は、ひたすら尾崎豊を聴いています。それもほとんど、「シェリー」ばかり。今この記事を打っているときも、尾崎です。「シェリー」です。誰にも話せないから。だから、「シェリー」とともに、時間を過ごします。

尾崎豊・・・説明するまでもない、カリスマ。私が中学生~高校生にかけて、多くのソウルフルソングを歌いあげ、そしてあっという間に消えてしまった人です。

尾崎が死んだときは、本当にショックだった。そのショックを、大して親しくもない同級生に思わずそのショックの気持ちを話したとき、「お前ごとき真面目なクソが尾崎を語るな、悲しむな」と言われ、殴り合いのケンカをした記憶がある。卒業して、会社の慰安会のカラオケで「愛の消えた街」をうたって上司に歌詞の内容をぼろっかすにけなされたときもケンカしたなぁ(殴り合いじゃないよ)。思い入れは強かった。

学校を卒業して社会人になってからも勉強していて、その目標に何度も弾かれて、家族からも愛想をつかれ、孤立していた時、やはり尾崎を聴いていた。その時も「シェリー」をたくさん聴いていた。

なぜ尾崎・・・いや、なぜ『シェリー』なんだろうか

私はいつも、何かしらの目標がないと行動できない人間だった。そしてその目標は、一般社会受けするような目標ではなく、一般社会の大人たちから「子供じみている」「大人になれよ」「そんなことを言っていてメシが食えるか!」と批判されるような目標だった。今私が持っている目標も、まさに批判の対象にされるでしょう。だから誰にも話していないが。

そんな批判される目標を持って生きてきた私は、常に接する人からさげすまれ、攻撃されてきた(一人だけ、本当に一人だけ、理解してくれる上司がいたが、その人もいなくなってしまった)。

・・・そんな状況が、まさに『シェリー』だったんですね。

転がり続ける生き様。どんどん一般的な幸せ路線から外れ、常に不安定で、孤独。結果も出ないのに、それでも行動を止めることもできない。本当にもがいている感じがします。

そんな生活の中で、心の痛みは嫌というほど知ったから、人に対しては決してごう慢にならず、思いやりを持ってきたつもりだった。悩んでいる人が私に話しかけてきたら、心を込めて話を聞いてきた。『こうしたいんだ』という人がいたら、『そうすればいい、答えはでているじゃないか』と心の底から共感し、応援してきた。

でも、自分のことになると、弱くなってしまいますね。

私にとって、『シェリー』は誰だろう?

尾崎にとって『シェリー』とは誰だったのだろうか?その点については、いろいろと説があります。恋人、が一般的ですが、母親、という説もある。人間以外のもっともっと大きな存在、という説もあります。今となっては、分かる術もありません。

私にとって『シェリー』とは、優しい言葉をかけてくれた記憶の中の人達、今まで見た感動的な景色、そして、尾崎を聴いて感動して夢を打ち立てて震えていた昔の自分、かもしれません。

今日も、私の『シェリー』に向かって、叫びます。

「不安だ。先がどうなるか、まったくわからない。今自分がやっていることが、本当に実になり、目指すべき場所に行けるか分からない。道の途中で、力尽きるかもしれない。明日にも気持ちが切れてしまうかもしれない。いつまで、壁のこちら側の空ばかりを見てないといけないのか?いつになったら、向こう側の空を見ることができるのか?いつまで、この場所にいなければならないのか?いつになったら、人がたくさんあふれる場所に行けるのか?」

尾崎のように「愛すべきものすべてのために歌う」ことはできないが、これからも、愛すべきものすべてのために、人に評価されずとも、弱音を吐きつつも、進みたい。

それにしても、尾崎、どこに行ってしまったんだよ。また戻ってきて欲しいよ。また「シェリー」を聴かせてほしいよ。

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島原の乱、凄惨・・「サンチャゴ ~レべリオン・シマバラ」

「サンチャゴ ~レべリオン・シマバラ」の第2巻を見つけました。

先月の末には出ていたようだが、なかなか書店になく、意外とマニアックな店で見つけました。今日、じっくりと読ませていただきました。ネタがマニアックな漫画は、なかなかない。

相変わらず、残酷な当時の現状が書かれている。第2巻では、代官所襲撃&代官殺害による島原の乱勃発までが描かれていました。最も島原の乱の過程で熱い時。

「サンチャゴ」では、描かれているのは松倉・寺沢の2大名に苦しめられた領民の怒り、だけではありません。島原の乱の闇の部分である、キリシタンによるキリシタン以外の者への敵意と弾圧も描かれています。

私は小学生の時は、島原の乱が、キリシタンによる殉教戦争だと信じ切っていましたが、それ以外の側面(圧政に対する反乱的側面・キリシタンによる仏教徒への迫害・乱に反対する者に対する、一揆軍による乱への参加強要)があることを知って愕然としたものでした。

本作はその点に目をそむけず、しっかりと描かれていると思います。そこがまたリアルで、残酷さに目を背けたくなるが、見入ってしまう。

島原の乱といえば益田四郎時貞(天草四郎)ですね。その四郎、巷の説では、旧有馬・小西家の浪人らにかつがれた象徴的存在だといわれていますが、本作では大将そのものです。そこがまた面白い。四郎ファン(そんな人がいるか分からないが)にはうれしい設定かもしれません。

視点が少し変わっていて面白い本作だけど、基本的なところ(虐げられた人間の悔しさ、憎しみ、怒り)はしっかりと描かれています。

そして、支配階級としておごっている武士たちの傲慢な振る舞いもしっかりと描かれています。諸説はあるが、過酷な統治が乱の勃発を招いたことは、疑いにくい。その点は外さず描かれているので安心した。

当ブログの読者は、会社の行いに憤りを感じている人が多いはずです。その点で、自身を、島原・天草の領民に重ねて見てしまうかもしれません。

重ねてみてしまうことは、無理に抑える必要はありません。領民たちのように、反乱をおこすのはまずいでしょうが、我々にできる範囲での行動をするきっかけにすることは一向に問題ないと思います。

作中で、四郎が言います

「我々は誤りを正す。クルスを掲げ、主の御意志に従い、戦う」と。

会社と戦う決意をした皆さんにも、四郎にとってのキリスト信仰のように、何かかけがえのないものがあるはずです。

家族?己の誇り?仕事?

なんでいいではないですか。大事に思えるものがあれば。

そのために戦う、そう思えたならば、きっと過酷な会社との戦いも、ふんばることができるかもしれません。

サンチャゴ・・・一揆軍がそのように鬨(とき)の声を挙げて、圧倒的多数の幕府軍と戦ったように、私たちも、何かかけがえのないもののために、今こそ立ち上がる時かもしれません。

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