ブラック企業と戦うための兵法」カテゴリーアーカイブ

『義を見てせざるは勇無きなり』~孔子 勝馬に乗る同僚は意気地なし。

労働紛争で、なぜ不当な行為に立ち向かう勇気ある労働者が孤立してしまうのでしょうか?

いつも苦々しい気持ちで考えるのです。

周りの同僚らが、表立ってだけならまだしも、心の中でまで、その労働者を遠ざけるからです。

理由のほとんどがそれだった。

心の中から、立ち上がった労働者を遠ざける同僚は、一体どのような価値観・善悪判断基準をもっているのだろうか?

人間は十人十色、誰一人として同じような考え方を持っているのものはいない、とよく言われている。

しかし、不当な行為をされて立ち上がり、それに対して卑劣な手段で退職に追い込まれたり、イジメを受けたりすることが、正当なことだと考える人間はいるのだろうか?

恐らく、『正しい』 『立ち上がった結果だから文句を言うな』 と厳しい意見を言う人間は必ずいるだろう。

しかし、多くの人間がそういう考え方なのだろうか

恐らく、私の経験も含めて、多くの人間は、巻き込まれるのが嫌で、心の中からも遠ざけてしまうのだと思う。

私は、その理由を、致し方ないでは片付けたくないのです。

なぜなら、ターゲットにされている労働者の痛みを、放ってなどおけないのだから。

考えてみてほしいのです。

その労働者にも、愛する存在があるのかもしれない。子供、妻、親、兄弟、尊敬する人、恋人など。

その愛する者たちのために、わが身を労働に投じているのです。

また、愛する者がなくても、心の中に大きな誇りや信念を持って働いているのかもしれない。

そこに居場所を見出し、その仕事にささやかながらやりがいを感じているのかもしれない。

労働紛争は、そんなすべてのたいせつなモノを、根こそぎ奪ってしまう一大事なのです。

そんな一大事にさらされている労働者を、我が身かわいさのために見過ごすことなど、できない相談であります。

中国の偉大な賢人、孔子は、

『義を見てせざるは勇無きなり』

と言いました。

そこに人間が本来持っている善の心を怒りに導く不当な行為があったとしても、立ち上がらなければ、「義を見てせざる」ではないのだろうか?

「勇無きなり」はとても辛辣です。勇気がない、とハッキリ断言しています。

でもその厳しい指摘を聞いて、少しでも思い当たるフシがあるならば、私たちは、少しでもいいから、義を見て行動する自分に、近づくべきではないのだろうか

労働紛争は、明日は我が身、なのです。

その時になって、孤立とその原因をしみじみ味わう前に、今ここで、義を見て行動を起こすトレーニングをしておきたい。

私は、常々そう思っています。

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ハンニバルとヴァルロの、カンネーの戦いから学ぶ。勝負前からローマ敗北の原因は作られていた。

以前紹介した、ポエニ戦争におけるカンネーの戦い。

後に多くの戦略家がその戦いを参照にしたり研究対象とするなど、ハンニバルの巧妙な戦術が光る戦いでした。

しかし、この戦いではハンニバルの戦闘上の戦術ばかりがクローズアップされていますが、戦いの帰趨を決したのは、それだけではありません。

簡単に、ですが、少し触れてみたいと思います。

当時ハンニバルの軍事的な優位性は明らかでした。

そのころのローマの指導者だったフェビアスは、ハンニバルとまともに戦っても勝ち目がないことを知っていたので、直接対決による決着は考えておらず、外交上の戦略などでハンニバルを間接的に追い詰めようとしたのです。

しかしローマ市民は、決戦を避けるフェビアスの姿勢に不満を感じ、彼を再任しなかったです

そこで指導者として選ばれたのが、のちにカンネーの戦いで大敗北を喫するヴァルロ。

彼はその血気盛んな性質ゆえに、戦いへの道のりを急ぎ、かつカンネーにおいてもメイン戦法として数に任せた中央突撃を敢行し、結果完全包囲作戦による壊滅を招きます。

歴史上名だたる戦いの陰に、このような事情があったのですね。

もしローマ市民があの時フェビアスを再任していたら・・・歴史にもしもはいけないのかもしれませんが、ローマの敗因を分析するうえでは重要です。

労働紛争において、このことは活かすことが出来ないだろうか?

直接戦って勝ち目がない場合、フェビアスのように、土台を築いたり、直接攻撃でない間接的な戦略で、使用者・会社の戦力や戦闘意欲を抑えることは可能ではないだろうか?

そのことを考えるのも有意義だと思います。

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『訴訟をビジネスだ』という他人事の意見。ビジネスじゃない。

訴訟に関する本を読むと、よく出てくる言葉があります。

『訴訟はビジネスだ』という言葉です。

「ビジネス」という視点で考えると、どこまでが利益があり、どこから利益がなくなるか?という尺度で見がちになります。

でも、労働紛争解決のために裁判を考えている人は、利益を上げるために裁判を起こすわけではないと思うのです。

紛争当事者たる労働者のみなさんは、正当な権利を実現するために、またはやられっぱなしの不当な扱いに一矢報いるために裁判の道を選んでいるのです。

そこには、「もはやこれしか手段がない」という追いつめられた状況があります。ビジネス感覚で、いろんな選択肢の中で、などという余裕な状況ではありません。

裁判を利益という基準で見ると、なんのために立ち上がったのか?という一番重要なことを見失ってしまうかもしれません。

手数料がいくらで、弁護士費用がいくらで、訴額がいくらで・・・と考え、労力と勝ち取るお金を比べて割にあうかどうかで裁判を起こすかどうか判断をする。

その方法はスタンダードですが、この方法をとらない人もいます。そして「とらないこと=間違っている」とはならないでしょう。

たとえ裁判での勝機が薄くても、あえて踏み切る人はいます。

不当な行為をされ、精神的・経済的な打撃を受けて、憎しみや怒りで気持ちが狂いそうになったとき、その場から前に進むためにも、割に合わなくとも裁判を起こすケースもあります。

そんな時、周りの人間(例え専門家であっても)が「割に合わないからやめておいた方がいい」と言っても、そんな言葉が果たして怒りでいっぱいになったその人の心に届くでしょうか?

その人は、燃え上がった自分の心にケリをつけるために裁判を起こすのです。お金のためじゃない!

「訴訟はビジネスだ」などという、いかにも安全な立場から語る弁護士のような言葉は、労働トラブルで心を引き裂かれた労働者に、何の希望も癒しも与えないでしょう。

裁判を起こすかどうかの判断は、本人が自発的かつ戦略的に紛争解決手段を考え、大切な家族との話し合いを参照にしたうえでのみなされると思います。

その唯一の判断過程によって生み出された結果、裁判が割に合わず「負けた」としても、心の中で納得し、次の世界に進めるのならば、ビジネスなど超越して、「勝った」といえるのではないでしょうか?

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同僚が同僚をさげすみ、イジメをする。職場イジメのほとんどは同僚のしわざ。

意外に思われるかもしれませんが、会社内のイジメのほとんどは、同僚によってなされるのです。

職場でのイジメと聞くと、傲慢な使用者や上司がある特定の労働者に的を絞って、組織ぐるみでイジメをする、というイメージがあると思います。

しかしこのようなケースは実は少数なのです。職場でのイジメで最も多いのは、同僚が同僚をイジメるパターンなのです。

ここで皆さんの記憶に働きかけたいと思います。

あなたの社会人としての記憶の中(アルバイト時代も含む)で、ありませんでしたか?同じ職場でのイジメが。

例えば、仕事が遅い、とか、物覚えが悪い、とかでいつもベテランの同僚らに冷たい扱いをされている人はいませんでしたか?

『そんなもの、その人にも問題があるから仕方ない。それはイジメじゃない』

そう思った方はいませんか?

その言葉、どこかで聞いたことがある。そう、中学生のいじめの中で、加害者が言い訳をするとき、もしくは周りで見て見ぬフリをしていたクラスメートが、自分への責任を回避するために言う言葉です。

周りにとってはささいな陰口でも、それを言われた本人はとっても辛いのです。言われた本人だって、生活がかかっているから仕事を辞めることはできない。つまり、逃げることが出来ないのです。そのような状況で言われる言葉は、まさに傷口にナイフを刺すようなものでしょう。

その痛みは、確実に残酷に、被害者たる労働者を追いつめます。

あなたは、同僚と人間関係をうまく構築できずに去って行った人を見たことありませんか?あなたの周りの人にも、人との関係が原因で会社を去った人はたくさんいるはずです。

考えてみてください。同僚も同じ従業員です。ちょっとくらい仕事が早くできたって、ちょっとばかし入社した時期が早くたって、しょせん同じ会社にやとわれている労働者なのです。

勘違いをしないで欲しいのですが、このページでは、従業員たる立場を軽く見る考えは一切ありません。私も同じく、会社にやとわれて生活費を稼いでいる人間です。

同じ立場の人間同士がわずかばかりの優劣をネタにして見下しあっているのは、なんと見苦しくて愚かだろうか、と言いたいのです。

ですから、みなさんの心の中に、新たに認識を持ってもらいたいのです。職場でのイジメは、多くは同僚の心ない行動によってなされている、と。

あなたも私も、いつ加害者になるか分からないのです。

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人との交流は最初が肝心~もう一度『大怨(たいえん)を和すれば、必ず余怨(よえん)あり』

以前にも紹介した中国の賢人・老子の言葉。

『大怨(たいえん)を和すれば、必ず余怨(よえん)あり』

私は、この言葉を座右の銘の一つとして考えています。大怨とは、深い深いうらみのこと。余怨とは、ここでの意味は、後に残るしこりのこと。

例え表面的に和解しても、深刻な怨みを経たあとは完全に怨みがなくなることはない。しこりが残るものだ、という意味。

老子はその戒めをもって、だから聖人は怨みごとを起こさないようにする、と続けています。

なんとも当たり前だけど、意外と皆できていないことです。もちろん私も、完璧になどできていないのですが。

しかし、私はこのことを人よりもかなり過酷な状況で体験してきました。大きな怨みを感じたこともあります。また、私自身が大きな怨みを持たれたこともあります。その時、心の底からの和解はできない、と強く感じました。

私の相手を憎む感情と、相手の私を憎む目は、今でも忘れられません。そしてその時の感情や視覚の記憶は、今でも変わらず私の心の中に暗い影を落としています。

職場でのトラブルを見るとき、加害者は強い立場を利用して、傍若無人でやりたい放題です。やれるものならやってみろ、私は慈善事業家じゃない、お前の家族のことなど知るか、などおおよそ人に対する思いやりのかけらもないような残酷な言葉がポンポン飛び出します。

彼らは気づいているのだろうか?

それほどまでに人を打ちのめす言葉が、どれほど打ちのめされる立場の人間とその周りの家族等にぬぐいがたい憎しみを生むのかを!

また、少しばかり仕事ができる人間が、仕事が遅い人間をよってたかっていじめる時、そこにどれほど消えがたい怨みを生じさせるかを!

中途入社で不安いっぱいの人間をベテランが排他的な態度でからかい、何も言えない立場を見透かして言いたい放題の態度をとる時、そこにどれほど大きな不快感を感じさせるかを!

だから今日はせめて、言っておきたいのです。

立場を利用した横暴があちこちでなされ、多くの人間が自分の強く出ることができる領域で傲慢になる現在。その中でこの記事を読んだ人だけは違った行動をとってもらいたい。

自分の勢力範囲下で人を思いやることができずに、今までと同じ結果しか得られない人間にはなりたくない。強く出ることができる時だからこそ、配慮を見せたい。そこから、新しい展開が始まる。

そのためには、最初が肝心なのです。人は初対面の人間と触れ合うとき、もっともナーバスになっているものです。そこで老子のこの名言を肝に銘じ、いかに配慮を見せるか。

大怨の恐ろしさを知り、それを生み出さないための行動をとることができたなら、肩書きを抜きにした心のふれあいができるでしょう。あなたは一発で、あなたの味方を増やすことが出来ます。

味方を増やしたいからするんじゃない。

人といたわり合って、そして笑いあう方が、私も相手も幸せだから。これは究極の思いやりです。しかし誰でもできる。

一人でも多くの人が、この記事を読んで実行してくれることを願います。

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労働基準法違反・職場いじめで自分に負けないための考え方集



さんぜんと輝く白亜の『墨俣一夜城』に思う~記録することの大切さ

用事があって岐阜に行くことがありました。そこで、今まで一度も行ったことがなかった墨俣の一夜城に寄って見ました。

墨俣の一夜城とは、かの豊臣秀吉がわずかの手勢とともに3日足らずで砦を築いた、という言い伝えからその名前が付けられた小城です。

古来このあたりは交通の要所であり、織田信長は美濃国の斉藤家を攻める拠点として城を築きたいと考えていました。しかし柴田や佐久間などの織田家の重臣をもってしても築城は失敗。そこで秀吉(当時は木下藤吉郎という名前)が名乗りを上げて、野武士などのわずかな手勢で戦いつつ築城を成し遂げた・・・という話が有名ですね。

しかしこの話、ほとんど確証もないのです。実際にこの墨俣での築城が、稲葉山城(岐阜城)陥落に大きな影響を与えたかどうかも分かっていません。

『洲俣を制するものは美濃を制し、美濃を制するものは天下を制す』

と歴史の話の中では出てきますが、それも創作の過程でまことしやかに言われた可能性もあります。話を面白おかしくするため、後人が脚色をし真実を分かりにくくしたというのも、真実を分かりにくくしている理由の一つです。

現在歴史ドラマなどで墨俣に関するストーリー制作のよりどころになっている『武功夜話』も、「偽書である」という批判も数多くあります。

墨俣の話を歴史物語として見る私たちには、そのような論争はあまり関係ないのですが・・・。

・・・ここで考えてみたいのです。墨俣の築城という、歴史的に大きな出来事ですら、しっかりと記録していないと後にこのような疑問を生じさせるのです。

もちろん、墨俣築城に関する記録は、まったくなかったわけではありません。しかし後の時間・時代にしっかりと明確に伝えるつもりで記録をしないと、事の一部始終を明確に証明することにはつながらないのです。

覚書、というスタンスでは、後に続く人間の疑問に答えるのは役不足なのかもしれません。

このブログは労働紛争をいかに戦略的に戦うかを考えるブログでもあります。

考えたのですが、記録をするときは、のちにその記録が当事者を納得させるくらい説明能力を満たした書き方を心がける必要があるのではないでしょうか?

単なる日記であっても、その内容は起こった事実を証するうえで役立つかもしれませんが、信ぴょう性に欠けると批判されるかもしれません。

それならば、せっかく記録を録るならば、紛争時の当事者に説明するつもりで詳細に、信ぴょう性を増すような資料をも添えて記録していきたいのです。

そして己にとって都合の悪い事実も正確に記録すること。都合の悪いことを省くと、その点について信ぴょう性が低いと批判を受けることになります。

・・・墨俣の一夜城に限らず、歴史には数多くの謎が存在します。労働紛争を戦う私たちは、歴史のその点から正確に記録を付けることのたいせつさを学ぶことが出来るのではないでしょうか?

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「本気で戦わない」戦いは負けるだけ・・・会社側に反撃をさせないための一撃をくらわすことに徹する

手合せ、試し打ち程度ならまだいいが、現実の戦いはドラマや漫画のように、手加減しても相手に勝ってしまう、などといううまい話はありません。

戦闘における威力偵察のような、目的を持った牽制以外、手を抜いた攻撃はすべきではないでしょう。

労働紛争において、「とりあえず反発してみよう」程度の決意・ノリでは何もなせずに時間が過ぎ、中途半端のままの気持ち・態勢の状態で相手(会社側)の容赦ない打撃を受けることになります。

実際の戦闘などでは、様々な偶発などの摩擦が生じ、説明しにくいですね。

ここは一対一の戦いを例にとり話してみましょう。武術の使い手同士の戦いです。

戦いの場で寸止めなどしたら、相手はノーダメージです。そして相手のその後の反撃でこちらがやられてしまいます。

どういうことかと言いますと、こちらの最初の一撃、、つまりこちらが最善の計画と戦法でつかんだ勝機に乗じた攻撃で相手を戦闘不能の状態にしなければ、ダメージを受けていない相手の次の攻撃によってこちらが戦闘不能にさせられる、ということです。

よく武術の達人が、面白半分の相手とまったく手合せをしないのもその理由だと思われます。攻撃する以上、相手に大きなダメージを与える手段を用いないと、相手の次の攻撃を防ぐことが難しくなることが分かっている。

しかし重大な覚悟もしてない相手にそこまですると、大きな問題となる。だからといって手加減して流す程度では、次の一手を防ぐことはできない。

よって武術の達人は、本気でない相手を相手にしないのです。

罪もない人が今目の前で凶悪犯に襲われているわけではない。守るべき人間が今まさに理不尽な人間の行いで傷つけられようとしているわけではない。

であるならば、その場はやりすごすことで、誰も傷つくこともない。だから何もしない、相手にしない。

かえってわかりにくかったでしょうか?

労働紛争も同じです。

ある不当な行為があり、そのことについて「絶対に認められない」とか「社員としての地位をかけて、戦う」というような固い決意をもって戦わない限り、その戦いの結果は見えてる、ということです。

こちらの攻撃を受けた後の会社側は、あなたが想像する以上の容赦ない反撃をしてきます。

法に精通した会社側専門家の登場、全従業員への密命によるシカト攻撃、言いがかりによる賃金の大幅なカット、まったく経験したことのない部署への強引な配置転換と厳しいノルマによる圧迫・・・・

これらの冷酷で残虐な会社側の一手を出させないためにも、こちらも周到な計画と断固とした決意で、全力の先制攻撃もしくは反撃をするのです。そしてその一撃で、相手の立場を少しでも不利に陥れること。

逆にそこまで強い決意を持てないようなケースならば、なんとかして戦わずにその場をやり過ごすなどの別の方法を考えると良いでしょう。

何もしなければ、当該不当な扱い以上の不利益を受ける可能性は低くなります。

その場をやり過ごし、態勢を立て直し、容赦ない打撃を与えられるようになったら、その時に攻撃をすればいいのです。

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島原の乱、凄惨・・「サンチャゴ ~レべリオン・シマバラ」

「サンチャゴ ~レべリオン・シマバラ」の第2巻を見つけました。

先月の末には出ていたようだが、なかなか書店になく、意外とマニアックな店で見つけました。今日、じっくりと読ませていただきました。ネタがマニアックな漫画は、なかなかない。

相変わらず、残酷な当時の現状が書かれている。第2巻では、代官所襲撃&代官殺害による島原の乱勃発までが描かれていました。最も島原の乱の過程で熱い時。

「サンチャゴ」では、描かれているのは松倉・寺沢の2大名に苦しめられた領民の怒り、だけではありません。島原の乱の闇の部分である、キリシタンによるキリシタン以外の者への敵意と弾圧も描かれています。

私は小学生の時は、島原の乱が、キリシタンによる殉教戦争だと信じ切っていましたが、それ以外の側面(圧政に対する反乱的側面・キリシタンによる仏教徒への迫害・乱に反対する者に対する、一揆軍による乱への参加強要)があることを知って愕然としたものでした。

本作はその点に目をそむけず、しっかりと描かれていると思います。そこがまたリアルで、残酷さに目を背けたくなるが、見入ってしまう。

島原の乱といえば益田四郎時貞(天草四郎)ですね。その四郎、巷の説では、旧有馬・小西家の浪人らにかつがれた象徴的存在だといわれていますが、本作では大将そのものです。そこがまた面白い。四郎ファン(そんな人がいるか分からないが)にはうれしい設定かもしれません。

視点が少し変わっていて面白い本作だけど、基本的なところ(虐げられた人間の悔しさ、憎しみ、怒り)はしっかりと描かれています。

そして、支配階級としておごっている武士たちの傲慢な振る舞いもしっかりと描かれています。諸説はあるが、過酷な統治が乱の勃発を招いたことは、疑いにくい。その点は外さず描かれているので安心した。

当ブログの読者は、会社の行いに憤りを感じている人が多いはずです。その点で、自身を、島原・天草の領民に重ねて見てしまうかもしれません。

重ねてみてしまうことは、無理に抑える必要はありません。領民たちのように、反乱をおこすのはまずいでしょうが、我々にできる範囲での行動をするきっかけにすることは一向に問題ないと思います。

作中で、四郎が言います

「我々は誤りを正す。クルスを掲げ、主の御意志に従い、戦う」と。

会社と戦う決意をした皆さんにも、四郎にとってのキリスト信仰のように、何かかけがえのないものがあるはずです。

家族?己の誇り?仕事?

なんでいいではないですか。大事に思えるものがあれば。

そのために戦う、そう思えたならば、きっと過酷な会社との戦いも、ふんばることができるかもしれません。

サンチャゴ・・・一揆軍がそのように鬨(とき)の声を挙げて、圧倒的多数の幕府軍と戦ったように、私たちも、何かかけがえのないもののために、今こそ立ち上がる時かもしれません。

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武経七書「李衛公問対」は「孫子」読後の解説書として使った

武経七書の「李衛公問対」は、武経七書の中で、成立が最も新しい兵法書です。

最も新しい・・・と聴かされると、結構多くの人が無意識のうちに「新しいから出来がいまいちなのでは?」と考えてしまうのです。しかし、この「李衛公問対」は、実に有益な兵法書だと思うのです。

有益だと思う理由・・・それは、本書中で二人の兵法のプロが、過去の有名な兵法についてわかりにくい点を解説する、というスタイルをとっているからです。つまり、二人の兵法の天才が、過去の兵法書のわかりにくいところ・もっと知りたいところを解説してくれているのですね。

二人の兵法のプロ・・・それは、中国史上きっての名君たる太宗(李世民)と名軍師・李衛公(李靖)です。

太宗は高校の教科書でおなじみであり、名君でもあり、戦略・戦術の天才でもあり、若い頃はその才能で唐の中国統一に大きな成果を挙げました。有能な君主でもあり、智謀と武勇を兼ね備えた将軍でもあったのですね。

李靖は、唐の建国を成した高祖(李淵)の時代からお仕えしている年長の軍師であり、太宗時代には軍の重鎮となっています。隣接異民族国家(突蕨)の平定に多大な功績を挙げた、名軍師です。

実際に、第三者がこの二人の問答を実際に聞いてそれを後に書き留めた、かどうかは、不明ですが、真実はいいではないですか。この二人の会話内容は実にプロフェッショナルで、的確であり、教えられる点が多いのですから。

私は「孫子」を読んだ後、孫子本編中に出てくる「奇」と「正」の意味と、両者の違いがよくわかりませんでした。だが、「李衛公問対」では、最初に「奇」「正」について二人が熱い会話を展開してくれており、実に参考になります。

「奇」と「正」については、「孫ぴん兵法」においても触れられていますが、解説のわかりやすさは、「李衛公問対」の方が上だと感じます。それは具体例が豊富なのもさることながら、二者のQ&Aの形式をとっているからではないでしょうか?

もし武経七書を全部読破したいと思うならば、まず「孫子」を通読し、その後李衛公問対の奇正の部分を読み、その後各六書を読み、最後にまとめで「李衛公問対」を読む、と効率がいいかもしれません。実際、私はその順に読みました。

「李衛公問対」は唐の時代までに発生した戦いや、過去の兵法書、過去の軍師・君主らを素材に採りあげ、具体的な解説を展開しています。ですから、歴史に興味がある人ならば、いきなり当書を読んでも興味深く読み進められるでしょう。

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労働紛争、「詭道」を脱する最善の方法は、司法手続きに持ち込む事

孫子の兵法では、「詭道」が戦いの本質の一つだと説いています。

労働紛争も、その語中に「争」の字が入っており、戦いであることは間違いありません。その過程では、脅し、仲間外れ、人格否定、約束破り、見え透いた嘘などが横行し、殺し合いが行われる以外は、本当の戦争で行われることと大した変わりはありません。

詭道であることを最大限に利用して有利に立つのは、やはり力が強い者の方です。労働紛争では会社側ですね。

よって、労働紛争では、力関係で不利な労働者は、詭道からなるべく脱した場所で戦うことが望まれます。詭道の真っただ中で戦ったことがある人はわかるのですが、そのような状況で戦い続けると、早晩深刻な精神的ダメージを被ります。

トラブル発生から訴えの提起までは、詭道であることを認識して、警戒する以上に警戒し、思いつく準備は極力実行し、最悪の状況を常に意識し、石橋をたたいて渡り、遠慮はしない。

そのような状態はずっと続けられないので、司法手続きの準備が整ったら、直ちに裁判所に出向き、適正手続きの原則が貫かれる司法手続きの場に戦いを持ち込みます。

司法手続きの過程では適正手続きの徹底が貫かれているため、脅しや不意打ちなどの詭道要素は徹底的に排除されます。司法手続きに持ち込まれると、今まで使用者側の詭道に一役買っていた心無い同僚も、おおかた口を閉ざし静かになるものです。

多くのサイトを見ますと、「裁判に持ち込まれて長引いたら労働者の負け」という記述がみられます。しかしそれは必ずしもすべて当たっているわけではありません。証拠等の確保、経済的な見通しが確立された労働者にとって、司法手続きに持ち込まれることは悪いことではないのです。

著名な交渉術である「ハーバード流交渉術」において、労働紛争に最も関連してくる「客観的基準を用いる」。

司法手続き以外の、私的な交渉の場では、客観的基準をないがしろにされがちです。ブラック企業の使用者は、客観的基準を侮っています。そんなもの、この会社では通用しない、と開き直るのです。

しかし、高尚の場が、調停や裁判、労働審判に及ぶと、使用者のそのような反論は、戯れ言となり、通用しません。

相手にしないでやり過ごしてきた今までのやり方が、司法手続きでは通用しないのです。

よって、持ち込まれることも、恐れる必要がないことをわかってください。

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