以前にも紹介した中国の賢人・老子の言葉。
『大怨(たいえん)を和すれば、必ず余怨(よえん)あり』
私は、この言葉を座右の銘の一つとして考えています。大怨とは、深い深いうらみのこと。余怨とは、ここでの意味は、後に残るしこりのこと。
例え表面的に和解しても、深刻な怨みを経たあとは完全に怨みがなくなることはない。しこりが残るものだ、という意味。
老子はその戒めをもって、だから聖人は怨みごとを起こさないようにする、と続けています。
なんとも当たり前だけど、意外と皆できていないことです。もちろん私も、完璧になどできていないのですが。
しかし、私はこのことを人よりもかなり過酷な状況で体験してきました。大きな怨みを感じたこともあります。また、私自身が大きな怨みを持たれたこともあります。その時、心の底からの和解はできない、と強く感じました。
私の相手を憎む感情と、相手の私を憎む目は、今でも忘れられません。そしてその時の感情や視覚の記憶は、今でも変わらず私の心の中に暗い影を落としています。
職場でのトラブルを見るとき、加害者は強い立場を利用して、傍若無人でやりたい放題です。やれるものならやってみろ、私は慈善事業家じゃない、お前の家族のことなど知るか、などおおよそ人に対する思いやりのかけらもないような残酷な言葉がポンポン飛び出します。
彼らは気づいているのだろうか?
それほどまでに人を打ちのめす言葉が、どれほど打ちのめされる立場の人間とその周りの家族等にぬぐいがたい憎しみを生むのかを!
また、少しばかり仕事ができる人間が、仕事が遅い人間をよってたかっていじめる時、そこにどれほど消えがたい怨みを生じさせるかを!
中途入社で不安いっぱいの人間をベテランが排他的な態度でからかい、何も言えない立場を見透かして言いたい放題の態度をとる時、そこにどれほど大きな不快感を感じさせるかを!
だから今日はせめて、言っておきたいのです。
立場を利用した横暴があちこちでなされ、多くの人間が自分の強く出ることができる領域で傲慢になる現在。その中でこの記事を読んだ人だけは違った行動をとってもらいたい。
自分の勢力範囲下で人を思いやることができずに、今までと同じ結果しか得られない人間にはなりたくない。強く出ることができる時だからこそ、配慮を見せたい。そこから、新しい展開が始まる。
そのためには、最初が肝心なのです。人は初対面の人間と触れ合うとき、もっともナーバスになっているものです。そこで老子のこの名言を肝に銘じ、いかに配慮を見せるか。
大怨の恐ろしさを知り、それを生み出さないための行動をとることができたなら、肩書きを抜きにした心のふれあいができるでしょう。あなたは一発で、あなたの味方を増やすことが出来ます。
味方を増やしたいからするんじゃない。
人といたわり合って、そして笑いあう方が、私も相手も幸せだから。これは究極の思いやりです。しかし誰でもできる。
一人でも多くの人が、この記事を読んで実行してくれることを願います。