この場所までたどりついて、爪に灯をともすような生活をして初めて実感できたこと・・・それは、本当に必要なものって、ほとんどないのだ、ということです。
この考えは、ある意味悟りに近いくらい深められた。ためしにショッピングセンターに行ってみると、私にとって差し迫って必要なものなど、ほとんどないと言うのが実感できます。
店に並ぶおびただしい数の商品が、今の私にとってほとんど必要ないものばかり。服も、ゲームも、音楽も、家電も、ホビーも、スポーツ用品も、今の私にとっては・・・。
本当に必要なものは、食料や生活雑貨くらい。
それらですら、「~でなければ」とかのこだわりはないのです。プライベートブランドで十分すぎるし、名の知られてないメーカーでもまったく問題ないのです。
人にその生活を知られたからといって、何の問題もない。ノープロブレムです。生活に必要なお金は、どんどん少なくなって、シンプルの極みに達した。
ある時、職場で一緒に仕事をした60過ぎの同僚のおじさんが言ってました。
「見栄とこだわりを捨てたら、本当にお金がかからなくなった。」
仕事の移動中に、ぼそっと言っていた言葉。その言葉を、私は聞き逃しませんでした。私はそう思う理由を聞いてみました。
彼は50歳手前まで、故郷で自営業を営んでいました。しかし事業のやりくりに疲れ、家族のことである程度自由がきくようになった後は、事業をたたんで故郷を出たそうです。
事業をしていたころは、同業やなじみの店の手前、かなりの背伸びをしていたそうです。
自分に対する妙なプライドに動かされ、商品の価格と自分の価値を同一化させて買い物をしていたそうです。
しかしそういう見栄とこだわりのむなしさを、事業の終わりとともに悟ったそうです。なぜなら、お金がなくなったら、必死で見栄を張っていた相手とウソみたいに疎遠になり、節約の一環で買ったこだわり商品以外のモノでも、品質・味共に大差がないと気づいたからだそうです。
その時は実感もなくその話を聞いていたのですが、今はよくわかるような気がします。
見栄・・・私の場合、見栄をはる余裕もないのですが、お金を稼ぐうえで、社会的に注目度の低い、底辺職だといわれる職業でも、お金が得られれば問題ない、と思いました。
人から嫌われ、さげすまれ、侮られたとしても、「だからどうした、この仕事も必要だ」と笑ってそのままにしておけるくらいになりました。
運動着は売れ残り品、色はちぐはぐ、色あせ。それがどうした、練習ができればいい。問題ない。
私は、まだこの同僚のおじさんのように、悟りをひらききってはいないだろうが、考えは近くなっていると思います。
今はもう、どこで何をしているか分からない人だけど、今一度その名言を肴に、ここまで至った考え・経験を聞いてもらいたいものです。