訴訟に関する本を読むと、よく出てくる言葉があります。
『訴訟はビジネスだ』という言葉です。
「ビジネス」という視点で考えると、どこまでが利益があり、どこから利益がなくなるか?という尺度で見がちになります。
でも、労働紛争解決のために裁判を考えている人は、利益を上げるために裁判を起こすわけではないと思うのです。
紛争当事者たる労働者のみなさんは、正当な権利を実現するために、またはやられっぱなしの不当な扱いに一矢報いるために裁判の道を選んでいるのです。
そこには、「もはやこれしか手段がない」という追いつめられた状況があります。ビジネス感覚で、いろんな選択肢の中で、などという余裕な状況ではありません。
裁判を利益という基準で見ると、なんのために立ち上がったのか?という一番重要なことを見失ってしまうかもしれません。
手数料がいくらで、弁護士費用がいくらで、訴額がいくらで・・・と考え、労力と勝ち取るお金を比べて割にあうかどうかで裁判を起こすかどうか判断をする。
その方法はスタンダードですが、この方法をとらない人もいます。そして「とらないこと=間違っている」とはならないでしょう。
たとえ裁判での勝機が薄くても、あえて踏み切る人はいます。
不当な行為をされ、精神的・経済的な打撃を受けて、憎しみや怒りで気持ちが狂いそうになったとき、その場から前に進むためにも、割に合わなくとも裁判を起こすケースもあります。
そんな時、周りの人間(例え専門家であっても)が「割に合わないからやめておいた方がいい」と言っても、そんな言葉が果たして怒りでいっぱいになったその人の心に届くでしょうか?
その人は、燃え上がった自分の心にケリをつけるために裁判を起こすのです。お金のためじゃない!
「訴訟はビジネスだ」などという、いかにも安全な立場から語る弁護士のような言葉は、労働トラブルで心を引き裂かれた労働者に、何の希望も癒しも与えないでしょう。
裁判を起こすかどうかの判断は、本人が自発的かつ戦略的に紛争解決手段を考え、大切な家族との話し合いを参照にしたうえでのみなされると思います。
その唯一の判断過程によって生み出された結果、裁判が割に合わず「負けた」としても、心の中で納得し、次の世界に進めるのならば、ビジネスなど超越して、「勝った」といえるのではないでしょうか?