労働紛争で、なぜ不当な行為に立ち向かう勇気ある労働者が孤立してしまうのでしょうか?
いつも苦々しい気持ちで考えるのです。
周りの同僚らが、表立ってだけならまだしも、心の中でまで、その労働者を遠ざけるからです。
理由のほとんどがそれだった。
心の中から、立ち上がった労働者を遠ざける同僚は、一体どのような価値観・善悪判断基準をもっているのだろうか?
人間は十人十色、誰一人として同じような考え方を持っているのものはいない、とよく言われている。
しかし、不当な行為をされて立ち上がり、それに対して卑劣な手段で退職に追い込まれたり、イジメを受けたりすることが、正当なことだと考える人間はいるのだろうか?
恐らく、『正しい』 『立ち上がった結果だから文句を言うな』 と厳しい意見を言う人間は必ずいるだろう。
しかし、多くの人間がそういう考え方なのだろうか
恐らく、私の経験も含めて、多くの人間は、巻き込まれるのが嫌で、心の中からも遠ざけてしまうのだと思う。
私は、その理由を、致し方ないでは片付けたくないのです。
なぜなら、ターゲットにされている労働者の痛みを、放ってなどおけないのだから。
考えてみてほしいのです。
その労働者にも、愛する存在があるのかもしれない。子供、妻、親、兄弟、尊敬する人、恋人など。
その愛する者たちのために、わが身を労働に投じているのです。
また、愛する者がなくても、心の中に大きな誇りや信念を持って働いているのかもしれない。
そこに居場所を見出し、その仕事にささやかながらやりがいを感じているのかもしれない。
労働紛争は、そんなすべてのたいせつなモノを、根こそぎ奪ってしまう一大事なのです。
そんな一大事にさらされている労働者を、我が身かわいさのために見過ごすことなど、できない相談であります。
中国の偉大な賢人、孔子は、
『義を見てせざるは勇無きなり』
と言いました。
そこに人間が本来持っている善の心を怒りに導く不当な行為があったとしても、立ち上がらなければ、「義を見てせざる」ではないのだろうか?
「勇無きなり」はとても辛辣です。勇気がない、とハッキリ断言しています。
でもその厳しい指摘を聞いて、少しでも思い当たるフシがあるならば、私たちは、少しでもいいから、義を見て行動する自分に、近づくべきではないのだろうか
労働紛争は、明日は我が身、なのです。
その時になって、孤立とその原因をしみじみ味わう前に、今ここで、義を見て行動を起こすトレーニングをしておきたい。
私は、常々そう思っています。