ブラック企業と戦う勇気が湧く励ましコラム」カテゴリーアーカイブ

大嫌いな言葉「問題は多いが、仕事はできるから」・・・仕事ができれば人を不快にさせてもいいのか?

私の大嫌いな言葉です。

「あいつは人間的に問題はあるが、仕事はできる」という言葉。

その言葉をきくと、仕事ができれば、人を不快にさせても、言動によって人を傷つけても、許されてしまうかのような印象を受けるのです。

でも、私は長年の職場での経験で仕事が人より多少早くできても、ズケズケと容赦のない言葉を浴びせたり、物覚えの悪い同僚を陰で攻撃するような人間は、まったく尊敬もできない。不愉快であります。

人より仕事が速くこなせるのが一体どうしたというのだ?

この人間が思いやりのない言動で同僚を追いつめ、苦しめ、いじめたりすることは、どんな偉大な手柄であっても打ち消してしまう。それくらい罪深い。

仕事ができるからといって思いあがっている人間、昔からその職場にいるからといって配慮を忘れた人間は、職場環境の点からみると本当にマイナスであります。

その職場はその人間一人のおかげでピリピリし、周りの同僚らは思い上がったその人間の誹謗中傷を恐れ、愛想笑いをし、媚を売り、思ってもないことで賛同する。

本当は皆、その人間が嫌いなはずなのに、攻撃されるのを恐れ表面では卑屈になり、話を合わせる。

私も、そのような人間に調子を合わせたことがある。

なんとも屈辱的だったことか。

ある時、陰で人格まで否定されていることを知り、苦情を言ったことがある。その場は相手も反論してきたので、双方怒鳴り合いの大ゲンカとなった。

そして次の日には、会社内の半分の人間から総スカンを食らったものです。

しかしその時不思議なもので、後悔も何もなかった。私の心は喜んでいた。これが私なりの対応なのだから、悔いなどない、と思った。

むしろ黙って笑って、適当に話を合わせる方が屈辱だった。

仕事ができると言われているからといって思い上がっている人間など、私の中では何の影響も受けない。見たくもない。

昔から長いことその場所で働いているからといって我がものに歩く人間は、どうみても井の中の蛙である。

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労働基準法違反・職場いじめで自分に負けないための考え方集



職場イジメに対する心構え ~戦う決意をした女性社員の「お局」に対する叫び

社内イジメの担い手として、欠かすことのできないお局様。

あなたはなぜにそれほどまでにお局様を恐れるのでしょうか?

すこし考えてみたいと思います。

お局様に嫌われると、その瞬間以後、お局とお局に逆らうことのできない意気地なしの同僚らよるいじめが始まるからです。

それが何よりも恐ろしいから、皆一生懸命、お局様の機嫌を取ります。

しかしお局という井の中の蛙は、人にちやほやされて、気を遣われ、他人に気配りをする、という思いやりを忘れています。

人に文句をつけたくてしょうがありません。

人間は誰でも自分が一番正しいと思っている生き物です。私もそうですし、あなたもそうです。しかし人に対する配慮から、公の場では心配りを見せるのです。それが普通です。

しかしお局は心配りを見せる必要がないから、人を傷つけることもなんでもかんでも言いたい放題なのです。

インターネットの掲示板やコメントを見てください。顔が見えないのをいいことに、人を見下したどうしようもない意見があふれんばかりに投稿され続けます。

フェイスブックですら、顔の載せない投稿者の意見は、傲慢で不愉快ですね。

配慮をしない人間の暴走は、もはや止めることはできません。

お局に嫌われないようにすることは至難の業。嫌われないためには、お局の意見にイエスマンになって、一緒にイジメに加担するか、見て見ぬふりをしつつ媚を売るか、だけです。

でも、それができない人だから、あなたはこのブログを見てくれたのだと思います。

お局に好かれることなど放棄しましょう。

お局には仕事上は普通に接します。相手が年上であったり、職場の先輩であるならばそれに対しての敬意は払います。しかしそれだけです。

理不尽な行為に対しては、きっぱりと不快な気持ちを伝えます。

『そんなことをしたら、社内で生きていけない・・・・』

そんな意見が聞こえてきます。わかりますよ。

生きていけなくなります。しかしもはや「賽は投げられた!」のです。

お局を前にして、言いましょう。

「あなたの理不尽な嫌がらせに、屈服するつもりはありません。あなたはこれからも私を同僚ぐるみでいびり続け、私を退職に追い込むかもしれません。しかし私は、たとえ退職に追い込まれても、必ずあなたのその行為の責任を追及する覚悟です。勝ち負けは問題でなない。たとえお金を多く失おうとも、時間を多くなくそうとも、辛い気持ちになろうとも、あなたのいじめを絶対に許さない。差し違える覚悟である。」と。

会社を変わるのは大変であります。

私も、不当な行為に屈し、変わったこともあります。しかし、我慢し続け己の信念を曲げて、いじめに加担するよりは、断然によかった。誇りを失わずに済んだのです。

「断じて行えば、鬼神もこれを避く」

鉄の意志の前に、間違いなくお局は心の中で穏やかな気持ちを失います。

周りのイエスマン同僚らは、あなたを批判するかもしれません。しかし「千万人と言えども我行かん」です。

己の行為を振り返って正しいと思えば、千万人が反対しようとも突き進め。進撃の歩を休めるな。多くの人間に笑われ馬鹿にされても、本当にあなたのそばにいる人は分かってくれる。私もあなたの勇気に共感するよ。誰がお局とその取り巻きなどにかっこよさを見出すものか!

子供の頃に思った単純な正義感に突き動かされて欲しい。社会のしがらみや平均値など意味もない。

ぼろぼろになりながらも、会社を追われながらも、お局の心に、正義の意志に基づいた一突きを食らわしてやれ。その一撃は、あなたの誇りをとりもどし、これからの生き方を決めるとてつもなく大きな一撃になるでしょう。

今まさにお局のいじめで何かを失くそうとしている人が読んでくれているのならば、届いてほしいです。

目標はただ一つ!この悔しい気持ちを、お局にくらわすこと!思いのたけよ、こん身の一撃となってお局にぶち当たれ!

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一つの夢を追いかけていた記憶~岡崎の町は、今もそこにあった

本当に本当に久しぶりに、岡崎の町を見下ろした。

もう何年となるだろうか?この土地を捨てて旅立ち、今は違う道を歩む私。

この土地に帰ってきたわけではありません。長い旅の途中で、ふと少し懐かしくなって立ち寄っただけ。これからの人生も、よりどころもなく、ただ遊子のごとくさすらうのみ。

十年近く、通った。一年の努力の結果を見るために、毎年通った。結果はすべて不本意なものとなったけど、今となっては「それも人生さ」。

この場所から見る岡崎の町は、いつも白くて、山も見えて、人の営みも見える。JR線が走っている。新幹線が通り過ぎる。矢作川はゆったりと流れていて、橋は車でいっぱいだけど、河川敷に目を向ければ、そこにはゆっくりとした時間が流れていた。

私は居心地のよさそうな場所を見つけゆっくりと腰をおろし、ふーっ、と静かに息を吐いた。なんともリラックスできる。そして、目の前に見える小さな青い花(おそらくオオイヌノフグリ)を見て、心の命じるままに後ろを振り返ってみた。

ここ数年、同じことしか書いてないようなビジネス本の毒にかかり、目標設定だ、金持ちだ、名を残すだ、等の野心めいた考えたちに心を揺さぶられていた。そんなもん、今はどうでもいい。

自分を見つめなおす時間を長く過ごしたわけではない。そのような時間を持つ時間の余裕もあまりなかったし、心の余裕もなかった。とにかく明日食べていくことを必死で考え、ただ生きていただけだった。修めるべき技術の練習だけは欠かさなかったが、生きがいやら、肩書きやらを求める気持ちはほとんど失せていった。

無いお金の中で、孤独の中で、すべき義務を淡々とこなす。毎日昨日よりも上達を目指して歩き続ける。今の自分にはそれだけで十分すぎる。これ以上、何を求めろと言うのか?

これだけいろんな考えや葛藤、そしてみっともない行いをしても、岡崎の町は見た目にはほとんど変わらず、あの時のように、ただそこにあった。

さあて、去るとするか。ありがとう、岡崎の町。今度来るときも変わらず私のままだろうが、それでいい。その時はまた、迎えて欲しい、岡崎。

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STAP細胞問題や眞子様ご結婚に見る、批判者の醜さ。この生き方だけはしたくない。

ひと昔、STAP細胞問題の渦中の人、小保方さんの記者会見がありましたね。私はこういった会見の記者の質問の仕方が大嫌いで、なるべく見ないようにしているのですが・・・・

私はなるべく見ないようにしているインターネット上の掲示板(むしろ絶対に見たくないとも思っている)には、これでもかこれでもかと手厳しい意見、酷評、人格批判、過去の暴き出しが繰り広げられています。

そのひどさと言ったら、目を覆うくらいです。

その中でよく見受けられるのが、「本人が出てきて真実を述べろ」という類の、自分は完璧な人間であるかのような上から目線の要求めいたコメントです。その要求の根拠は、「疑惑の論文で社会を騒がせたのだから謝罪しろ」というものです(ほかにも根拠はあるようですが)。

この女性研究員が謝罪する理由や筋があるのか、私たちには明確にわかりません。そもそも、まだ疑惑の段階であり、偽りであるかどうかもはっきりしていません。不正などしてないかもしれない。加えて、ネットの前で匿名で顔も出さず、素性もあらわさず批判している連中に、どうして謝罪しろ、研究員なんて辞めろ、なんて言われなければならないのか?お前たちは何様のつもりなのか?

そんな必要はありません。こんな連中に謝ったり、事の次第を説明する必要などまったくない、と私は思います。こいつらはネットの前で対岸の火事を決め込み、安全な位置から優越感に身を任せ人を攻撃することを楽しんでいるだけですから。

この研究員の過去の論文等の不備を取り出して、彼女の人格を否定する動きもみられるが、疑惑があれば何をやってもいいのでしょうか?よってたかって一人の人間を攻撃することは、「イジメ」以外のなにものでもない、のでは?私はこの現状(女性研究員ばかりが叩かれ、擁護の声がまったくと言っていいほど聞こえない現状)に激しい怒りすら感じるのです。

人間、完全ではない。過ちも犯すし、ずさんなところもある。悪魔のささやきに心流される場合もある。すべきことを先延ばしにして、ダラダラとほったらかしにしてしまうこともある。所属する共同体のルールを把握してないがために、その共同体に迷惑をかけてしまうこともある。

そんな経験、誰でもあることではないか?その人それぞれに、ユニークな性格上の特徴があり、それが欠点としてとられたり、長所としてとられることもある。この女性研究員に関して、彼女の特徴全てを取り上げ、ネット上にマイナスに評価して叩いている。これはやはりイジメだ、残酷で見ていられない。悔しい。涙がでる。いくら顔が見えない人間のコメントだとしても、この残酷なコメントを見た人間は、それが自分に関わる批判だったら、まず無傷ではいられない。

どうしてそれを分かってあげられないのか?「本当に落ち込んでいるかどうかなんて分からないだろ」という意見もある。しかし、では落ち込んでない確率が100%なのでしょうか?精神的に打ちのめされている可能性が少しでもあるなら、その点に配慮してわれわれ部外者は、せめてそっとしておいてあげるべきではないか?

なぜそういった意見が聞こえてこないのだろうか?

STAP細胞問題の一連の報道やそれに反応する大勢の人間の容赦ない意見がどうしても受け入れがたく、そして苦しかった。

小保方さんは、ご迷惑をかけたことに対する謝罪と反省を述べていたけど、そんなことを必要以上にする必要もない、と思いました。

みんな、そこにいる厳しい質問をする記者たちだって、テレビの番組でコメントする人間だって、不完全であり、100%キレイであることなどないのですから。皆、人に言えない闇の部分を抱えているし、心の中では、社会一般的に許されないような残酷な考えを持っていたりする。

小保方さんのしたことはなんですか?論文の不正?ねつ造?論文の不正など、よくあること。努力を重ねてきたであろうこの人だって、時に手抜きをしたり、我流に走ったりすることもあろうに。ねつ造?そんなこと、今の段階では分からないし、分かった時にそれなりの結果が伴えばいいじゃないか。なぜはっきりと分かってもいない今の段階で、顔も名前も明かさないネットユーザーごときに批判されないといけないのか?ましてはそんな連中に謝らないといけないのか?

小保方さんもそれなりに自分の世界で努力している。ネットユーザーだって、置かれた立場の中で、苦しんだり走り回ったりで努力している。何も変わらない。人のことなど、とやかく言うのはそもそもお門違いであり、空しい。

それは逆に、人に何か言われても、放っておけばいい、ということにつながるのではないか?ネット上での批判など、なおさらのことだ。顔も名前も見せない連中の意見など、雑音でしかない。そんなものに心を痛める時間は、本当にもったいない気もする。

誰だってミスするがな。誰だっていい加減なとこあるがな。誰だって人を不快にさせたりする経験もあるがな。安易さに走ったり、妥協することもあるがな。思い出して思わず恥ずかしくて辛い想いをしてしまう想い出だってあるがな。

小保方さんや眞子様は、あなたのままで。余計な御世話かもしれませんが、批判していない人もいる。少しでも届いてくれるといいなぁ。

今の心のままで、異議を申立て、STAP細胞の存在を訴え、涙を流し、あなたらしく日々を送ってください。性格上の欠点もあなたそのものであり、皆誰しもが、欠点も持ち合わせており、気にすることもなく、今の時期を過ごしてください。

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「時間は人を裏切らない」を信じている

「時間は人を裏切らない」・・・そんな言葉が大好きです

昨今、ネット上を見ると「効率よく行え」とか、「できない人はどこがいけないのか」たぐいの言葉があふれ、行動することだけでは何の価値もないことだと思ってしまうような風潮が感じられます。

しかし私は、いろんなことにチャレンジして、失敗して、それなりの結果が伴って、分かったことがあるのです。それは
・・・・とにかく行動することが何よりも重要で、何をするか、どのようにしなければならないか・・・は大して重要でない、ということ。

何をするか、とかどのようにしたらうまくいくかは、行動して、その人自身が失敗やら成功やらを繰り返して初めて分かることだと思った。人から言われてわかるものではないし、人から言われたことに縛られていると、自分なりの経験が得られないと思った。

当然時間はかかる。しかし、他人がお金と引き換えに教えてくれるノウハウよりも、自分で紆余曲折の末にたどりついたノウハウのは、どれほど価値があるか、痛感したのです。もちろん、その人が見つけ出した方法は、その人が自身が用いて、最大に価値を発揮するでしょう。

ネットの普及で、己が望む結果やモノを、性急に得ようとする風潮が高まり、時間をかけることが望ましくないかのような風潮が見え始めています。速いのはいいのかもしれないが、速さだけにとらわれてしまうのは、最も価値のあることを経験できない危険をはらんでいると思うのです。

このブログを読んでいる人は、労働法違反がらみのキーワードを打って、たまたま当ブログにたどり着いた、という人もいるでしょう。ひょっとしたら、今まさに、会社と仁義も慈悲もない戦いをしているかもしれない。

労働紛争にも、「時間は人を裏切らない」という名言が励ましとなってくれるでしょう。

労働紛争に時間をとられ、その戦いで勝利を得ることができなくても、貯蓄を失っても、家族のきずなを破壊されても、そこから何かが見えてくる。もちろん、辛い思いをしなければ得るものがない、と言ってるのではありません。どんな状況に追い込まれても、そこで経験したことがこれからの人生に何かしらの影響を与えるものとなる、と言ってるのです。

辛い思いにさらされた時間の長さは、経験した者にしか分からないほどの長さがあります。抜け出せないかのような時間のドロ沼の中で、もはや想い出すら思い出すこともできないくらい視野が狭くなり、憎しみや復讐心ばかりが増幅していく。

そしてそれらの後ろ向きな気持ちが極限に達した時、何かがフッと切れるような感じになり、どこかで区切りをつけたくなったり、相手(会社の経営者ら)に憐れみの感情が湧いたりしてくる。

その時湧き上がる感情には、人によって個人差があるようですね。多かったのは、相手に対する憐れみや、飽きの感情でした。

「もういい、この紛争はここで終わらせる。もう十分だ。私は十分戦った。言いたいことも言った。相手の交渉態度があまりに醜悪で、惨めさというか、かわいそうになってきた。この人間は、きっとこれからも多くの毒を吐き、それゆえ、死ぬときにはその死に顔に心の中で唾を吐かれるだろう。私は、そんな人間とかかわっているほど、暇ではない」

キリストやブッダの教えからすれば、このような考えなど、まだまだ悟りとは言えないでしょうね。でも、悟りをひらくつもりなどない私にしてみれば、こう言って紛争から去って行った人たちが、とてもまぶしく見えた。

苦しみに時間を割いたものだけが味わう、戦いの中におけるほんのわずかな甘い時間。嫉妬すら感じたのです。

「時間は人を裏切らない」・・・・シンプルな言葉だけど、きっと多くの労働紛争渦中の人が、自分なりの区切りや悟りを得るための、ヒントとなりそうです

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「シェリー」を聴いて、転がり続ける自分の生き様を自覚する

4月から本職が大打撃を受け、収入は減り、人のつながりはなくなり、ほとんどフリーアルバイターの状態となってきました。

誰にも言えない状態が続いています。私が接している人間のつながりは、今はアルバイト先がほとんどになっています。まさかそのアルバイト先で悩みを言えるはずもない。見栄を張っているわけではないですが、とても言えない。

それでも、毎日のすべきことは、次から次へとやってくるんですね。その場でうずくまり続けるわけにもいかない。本当は、そうして、思いっきり悩んで、人に悩みを聞いてもらいたい。でも、誰も、私のことは聞いてくれるわけもなく、また、巻き込むわけにもいかない。

勉強中、練習中、本職中、などの一人でいる時間は、やはり辛さがこみあげてきます。自身の経験から一つの目標を立て、地味で辛い日々の行動を積み重ねてきたが、結果が出なかったり、成果が大幅に消えてしまうと、さすがに落ち込んでしまう。

パソコンを使って行う作業の時は一人っきりだから、いつも音楽を聴いています。いつもはクラッシックなどを聴いているが、今はそれを聴けない。今は、ひたすら尾崎豊を聴いています。それもほとんど、「シェリー」ばかり。今この記事を打っているときも、尾崎です。「シェリー」です。誰にも話せないから。だから、「シェリー」とともに、時間を過ごします。

尾崎豊・・・説明するまでもない、カリスマ。私が中学生~高校生にかけて、多くのソウルフルソングを歌いあげ、そしてあっという間に消えてしまった人です。

尾崎が死んだときは、本当にショックだった。そのショックを、大して親しくもない同級生に思わずそのショックの気持ちを話したとき、「お前ごとき真面目なクソが尾崎を語るな、悲しむな」と言われ、殴り合いのケンカをした記憶がある。卒業して、会社の慰安会のカラオケで「愛の消えた街」をうたって上司に歌詞の内容をぼろっかすにけなされたときもケンカしたなぁ(殴り合いじゃないよ)。思い入れは強かった。

学校を卒業して社会人になってからも勉強していて、その目標に何度も弾かれて、家族からも愛想をつかれ、孤立していた時、やはり尾崎を聴いていた。その時も「シェリー」をたくさん聴いていた。

なぜ尾崎・・・いや、なぜ『シェリー』なんだろうか

私はいつも、何かしらの目標がないと行動できない人間だった。そしてその目標は、一般社会受けするような目標ではなく、一般社会の大人たちから「子供じみている」「大人になれよ」「そんなことを言っていてメシが食えるか!」と批判されるような目標だった。今私が持っている目標も、まさに批判の対象にされるでしょう。だから誰にも話していないが。

そんな批判される目標を持って生きてきた私は、常に接する人からさげすまれ、攻撃されてきた(一人だけ、本当に一人だけ、理解してくれる上司がいたが、その人もいなくなってしまった)。

・・・そんな状況が、まさに『シェリー』だったんですね。

転がり続ける生き様。どんどん一般的な幸せ路線から外れ、常に不安定で、孤独。結果も出ないのに、それでも行動を止めることもできない。本当にもがいている感じがします。

そんな生活の中で、心の痛みは嫌というほど知ったから、人に対しては決してごう慢にならず、思いやりを持ってきたつもりだった。悩んでいる人が私に話しかけてきたら、心を込めて話を聞いてきた。『こうしたいんだ』という人がいたら、『そうすればいい、答えはでているじゃないか』と心の底から共感し、応援してきた。

でも、自分のことになると、弱くなってしまいますね。

私にとって、『シェリー』は誰だろう?

尾崎にとって『シェリー』とは誰だったのだろうか?その点については、いろいろと説があります。恋人、が一般的ですが、母親、という説もある。人間以外のもっともっと大きな存在、という説もあります。今となっては、分かる術もありません。

私にとって『シェリー』とは、優しい言葉をかけてくれた記憶の中の人達、今まで見た感動的な景色、そして、尾崎を聴いて感動して夢を打ち立てて震えていた昔の自分、かもしれません。

今日も、私の『シェリー』に向かって、叫びます。

「不安だ。先がどうなるか、まったくわからない。今自分がやっていることが、本当に実になり、目指すべき場所に行けるか分からない。道の途中で、力尽きるかもしれない。明日にも気持ちが切れてしまうかもしれない。いつまで、壁のこちら側の空ばかりを見てないといけないのか?いつになったら、向こう側の空を見ることができるのか?いつまで、この場所にいなければならないのか?いつになったら、人がたくさんあふれる場所に行けるのか?」

尾崎のように「愛すべきものすべてのために歌う」ことはできないが、これからも、愛すべきものすべてのために、人に評価されずとも、弱音を吐きつつも、進みたい。

それにしても、尾崎、どこに行ってしまったんだよ。また戻ってきて欲しいよ。また「シェリー」を聴かせてほしいよ。

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「守るべきものができた時に守れる要素は持ってないと」 ~福士颯太さんが拳法(ジークンドー)を学ぶ理由

福士颯太さんは、いっとき本当に人気のある俳優さんでしたね。彼が人気があったのは、当然なような気がします。そのあまりの好青年ぶりに、凹むくらい圧倒されます。英語も堪能、かっこよくて、さわやか。

彼の言動を見ていると、「自分を良く見せようとして偽ってないか?」とも思うのですが、所作は自然であり、背伸び感を感じさせない。スマップの中居さんの「嘘ついてない?」という質問にも、「一番その時がリラックスできる時間」とさらりと言ってのける。すごい!!

そんな福士さんですが、拳法(ジークンドー)を習っています。ジークンドー?何それ?と思うでしょうが、あのブルース・リーが創始した拳法で有名です。著名人も結構習っています。v6の岡田准一さんが有名です。「名探偵コナン」に登場する、世良真純や赤井秀一も、ジークンドーの使い手ですね。

福士さんがジークンドーを習う理由が本当にカッコいい。「守るべきものができた時に守れる要素は持ってないと」という理由。

なんだ、こいつは!私はそんなカッコいい理由を言えないぞ。福士さんに「守るべきもの」と思われた人は幸せですね。

でも、この理由、私も同意できるのです。

最初私は、同級生をかばうつもりで拳法に憧れ、親との拳法体験を機に習い始めました。習い始めた時は、本当にひたすら、むかつく同級生を仮想対戦相手にして、拳を突いたり、蹴りを入れたりしてました。中国拳法の練習って、地味で下半身にやたらと負荷がかかり、同じことの繰り返しなのですが、耐えることができた。

しかし、そんな練習をしているうちに、むかつく同級生を沈める為だけに苦しい思いをするのが、アホくさくなってくるのですね。もっと大きな可能性を感じるようになる。拳法で自信がつき始めると、他人がされているイジメに対しても敏感になり、力を貸したくなってくる。

今私が拳法を練習し続ける理由は、最初の時と全く変わりました。今は、「弱きに力を貸し、強きに一緒に立ち向かうため」に練習してます。これは間違いない。私にとって「守るべきもの」は、いわれなき不当な暴力・扱いを受けている「弱き」ものなのですね。

私が今学んでいる拳法の先生も、「ケンカに使うのじゃないよ。大切な人を守るために使うんだよ。」と見学しに来た小学生に言っておられました。そこで改めて自分の学ぶ理由に自信を持った記憶があります。さすが先生・・・。

福士颯太さんも、きっとこの境地に達しているから、忙しい合間にも毎日欠かさずジークンドーの練習が続けられるのでしょう。彼がすごいのは、この完成された「理由」をきっかけに学び始めたこと。そこが私とまったく違うところですね。やっぱりすごい。

このブログを見ておられる方は、今会社との戦いに身を置いてるかもしれません。ひょっとしたら、職場や学校・コミュニティでイジメに遭っておられる方もいらっしゃるかもしれません。

戦いの過程で、戦うために法律を勉強したり、交渉術を学んだり、セルフトークをしている方もおられるでしょう。いじめに勝つために、一人さびしく拳をついている人もいるでしょう。

そんなあなたも、「守るべきものができた時に守れる要素」を身に着けるために、その陰の努力をしておられるのです。あなたにとって「守るべきもの」は、家族の平穏な生活であったり、己の誇りであったりする。

それらすべて、かけがえのないもの。胸を張って言える「守るべきもの」です。

努力しているあなたは、福士颯太さんにも引けをとらない。すごいと思います。応援したくなります。

福士さんの場合のように、周りの人がこぞってあなたに「かっこいい」とは言ってくれないでしょう。批判されることの方が多いかもしれません。しかし、分かっている人は、きっとわかってくれるでしょう。

私は応援しています。これからも、一緒に戦いましょう。

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「非属の才能」~非属・社会不適合者と言われ、群れるのが嫌いな天才へ

私はあまり「新書」の類は読みませんが、この「非属の才能」(山田玲司・光文社新書)は面白かった。

内容と簡単に言いましょう。この本は、「社会不適合者」と言われるような、集団の価値観に染まることができない人間向けに書かれた本です。

群れの価値観に迎合できず、ひきこもりやニートになったとしても、それはあなた本来の群れに属さない強い個性のためゆえ、気にすることはない、自分らしくありのままに表現をして、考え、生きていきなさい、という応援歌的な内容となっています。

群れに属することができない・・・これはまさに自分のことのようです。

私は、人と群れるのが苦手であり、クラスでも友も少なく(全くいないときもあった)、いつも窓の外を向いていた。だけども一向に焦ることもなく、何とも思わなかった。先生が気を利かせてアドバイスしてくれても、実行にも移さなかった。

他の人を見下しているわけではない、ただ、考え方が違うのに、併せなきゃいけないのは嫌だったのです。集団に群れれば、自分の気ままに動くことはしにくくなります。

もちろん、多くの仲間に囲まれていても、己の考えを持って生きている人はいらっしゃいます。しかし、私には難しかった・・・それだけのことです。

この本の著者の山田玲司氏も、どうもなかなかの不適合者だったらしいですね。彼は数多くの「非属」な著名人にインタビューを繰り返し、その影響で本書が完成したらしいです。ですから、この本には沢山の非属の先輩が登場します。それがまた楽しい。

会社の不当な行いに、「NO」と行ってしまう人も、非属の才能があるのかもしれません。普通なら、その場を耐え忍んで、何も言わずに我慢したり、転職したりするでしょうから。

でもあなたは、それができないらしいですね。ですから、このようなブログを見ているのでしょうね。「負けたくない」「せめて一泡吹かせてやりたい」そんな考えであるなら、あなたは私と同じ、「非属」タイプでしょう。

戦う過程で群れに属する人間は、あなたにいわれなき言葉をかけてくるでしょう。

「皆がまんしている」

「世の中にはもっとひどい環境の人がいる」

「おまえは立てつくほど一生懸命仕事してきたのか」

・・・などと。しかし、こんな意見はどうでもいいのです。

皆が我慢しているから、私は我慢しなければならないのか?もっとひどい環境で苦しんでいる人がいるといわれて、我慢を強いられるのか?そんな人、知りもしない。一生懸命やってきた?私は自分なりに一生懸命やってきた。一生懸命の度合いを、人に比べられてたまるか!

あなたは群れに属せない。また、属する必要もない。それは私のブログでも書いてきました。私のブログでは心もとなかったら、是非とも本書を手に取ってください。そして何度も読んでください。きっと、今までと違ったやる気が出てくるでしょう。

一度しかない人生。群れの価値観で生きるのでは、あまりにもったいないよ。あなた自身のままで突き進んでください。

その結果、苦しい状況におちいったとしても、大丈夫。意外と自分らしく進んでいれば、その苦境も耐えられる。耐えられなくなったら、また聴いてくれる人に話せばいいよ。どうしても耐えられなくなったら、いったん避難してもいいしね。

「自分の決めた道へ進んだら、弱音を吐いちゃいけない」

そんな言葉も、非属の人には当てはまらない。そんな言葉は、まさしく群れに群れる人間が考え出す言葉だ。どんどん一般社会的本流から外れ、あなた自身の道で進んでください。

ちなみに、この本、まわりにいる私以外の者にはあまり評判は良くないですね。最高。

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決して辞めない、もう一つの特殊技能(中国拳法)の練習

3日前からずっと風邪をひいています。

3年半前に風邪を引いたときは、朝の練習後に熱が出始め、大したこともなく、次の日には回復していたので夕方に練習したので、練習のストップは無かった。

今回は仕事に行く前から高熱が出たため、以後3日間練習はストップしたとしておきました。バイト先にも迷惑をかけてしまった。申し訳ない気分でいっぱいです。

26年連続で練習をしていると、それが日常の中で当たりまえになってくる。練習も辛くない(やっぱり辛い時もある)。朝の3時台に起きるのも当然となってくる。台風でも大雪でも、大寒波でも熱波の時でも練習する意志は変わらなかった。が、己の内からくる辛さには勝てないときもある、今回はさすがにさげた。

何か事をする時、やらない理由を見つけるのは実に簡単です。いろいろな理由があります。寒いから。明日朝が早いから。気分が乗らないから。人が練習場所にいるから。着る服が無くなるから・・・ほかにもいくらでも思いつく。以前は私もそのようなことを言っていた時期があった。

でも、話を聞くと、昔日の達人はそんなことはなく、毎日当たり前に練習していたらしい。そして私の身近にいる先生も、先生の先輩たちも、皆、当たり前に毎日練習している。

その中で、練習する拳法の術理が身に着くのでしょうね。その動作が自然となるから、いざという時に自然と出る。確かに、いざという時に、あまり練習してない不慣れな動作はできない。

外回りバイト中におっさんに襲われたときも、練習中にやんちゃそうな少年たちに絡まれたときも、出た動作はみな、もっとも練習した基本技だけだった。それは八卦掌の基本技であったり、柔道の受け身・そでのつかみ方であったりした。

おそらく、毎日の練習すらなかったら、それらの基本技すら出なかったでしょう。その場に居ついてしまい、固まって動けなかったと思います。相手に対処した時、その場で何か考えていた記憶もありません。後になって、「ああすればもっと良かったかな」と考えるだけです。

昔は、今よりももっともっと生命の危険が身近であった時代です。他流試合でも、命を落とすことすらあった。よって拳法を練習する者たちは、よりシビアに練習に取り組んでいたはずです

きめ細やかな法で守られた現代の日本で生きる私には想像もできないのですが、せめてその気概だけでも見習って、これからも毎日継続して練習していきたい。

今日はその決意の日にしようと思う。

きっと病み上がり後初の練習の時には、脚の筋肉痛はほとんど消えているでしょう。リフレッシュされたその脚に、再び積み重ねていきたい、術理の蓄積を。

拳が求める基本動作をもう一度吹き込んでいきたい。清朝末式八卦掌仕切り直しだ。やり直しだ。

練習が低調だったのはとても残念だったが、これを機に、ふたたび飛躍したい。

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尾崎豊「シェリー」に思う~みんなの、私の「シェリー」は?

前回(6月2日)、ブログで尾崎豊さんの『シェリー』について思いを書きました。

意外と反響があったようで、メールで、または話の中で、皆さんにとっての『シェリー』を教えてもらいました。

まずは家族。

これは基本ですね。そして定番です。しかし定番になり得るだけの、極めて深い思い入れがあるでしょう。

前にいた会社でがむしゃらに働いている30代の人がいました。「なぜにそこまでするのか?」という同僚の問いに迷わず、「家族のため、それ以外ない」と即答していました。家族が安心して寄りかかってくれるためには、俺がしっかりしなければならない、しっかりすれば、子供も安心して学校に進学させられる、という趣旨の話をしていました。

カッコいいですね。この方はきっと、うまくいかないときは、心の中で自問するのでしょう。「シェリー(家族よ)、おれは真実へと歩いているかい?」と。この方にとって真実とは、「家族の平穏な生活」なのでしょうか。

恋人。付き合っている人。

この歌の展開から言って、多くの人が『シェリー』とは恋人だと思うでしょう。

メールで教えてくれた人は、「今のままでいいよ、そこがいいのだから」と言ってくれる恋人が、私にとっての『シェリー』だと教えてくれました。このメールを見て、胸が熱くなりましたね。

ありのまま、つまりは欠点や、一般的でない趣味、性格、弱いところまで認めてくれる人が常にそばにいて、暖かい目で見守ってくれているのならば、「転がり続けて こんなところにたどり着いた」としても、前を向けるのでしょうね。立ち上がって、ふらふらになりながらも、進むことができるでしょう。

なんてロマンティックで、素敵だろうか。この人は、本当に素敵な人に巡り合ったのですね。

親。

わがままを言っても、無償の愛をかけ続けてくれる親は、精神的な支えになるでしょうね。

「シェリー?親だろうか」と教えてくれた人は、結婚後も迷惑をかけて婚姻も破たんしたが、その時でも唯一味方になってくれた親に申し訳なさと同時に、とても感謝していました。

ただ、心の中であっても、親を「シェリー」だと思うのは気恥ずかしい、とも言っておられました。そうでしょうね。私も同じ立場ならば、そう思います。

前にも書きましたが、尾崎は母親をイメージしてこの歌を作った、とも言われており、きっと、多くの「シェリー」好きには、同感する人も多いと思います。

お世話になった方。上司。先輩。先生。

意外?と、このような方もおられます。先生や上司は、自分が右も左も分からない時に、その世界で生きていくための術を教えてくれる人でもあり、かなり大きな影響を受けるハズです。

先生に教わった考えが、その人の人生の中で大きな精神的柱になることもあるでしょう。新人時代に、仕事への取り組み方を熱心に思いやりをこめて教えてくれた上司は、以後の社会生活にとって見本となり得る存在です。

漫画の話で恐縮です。「野球狂の詩」を知っていますか?ドリームボールという魔球を武器にプロで活躍する女性投手・水原勇気が主人公の、水島新司氏の野球漫画です。

水原には、東京メッツでの2軍時代にプロ野球選手のイロハを教わった武藤兵吉というベテランの先輩?上司か?がいました。「バッキローイ!」が口癖の少々荒っぽい先輩です。武藤はやがて広島東洋カープにトレードされ、そこで武藤はメッツを見返すため、水原のドリームボール攻略に野球人生を賭けます。

水原は武藤が去った後、数多くの苦難に直面します。その時、水原が真っ先に想った人が、武藤兵吉でした。水原は追い詰められ、ある時広島のカープ宿舎の武藤に電話をします。その時武藤は、電話先で水原が泣いていることを悟り、あえてふたりが一緒にいた時のように接します。「バッキローイ!」と。昔のままに接することが、水原を最も勇気づけると思ったのでしょうね。それを聞いて水原は感謝しながら泣き崩れます。無骨だが、「シェリー」になりうる、素敵な先輩ですね。

ちなみにその後、武藤は水原と対決、ドリームボールをバックスクリーンに叩き込み、そのまま現役引退。水原は、ドリームボールを打たれたら引退するといっていたが、それはせず、武藤を師として現役を続行します。野球漫画で最もすてきな話です。

・・・・皆、いろいろとあるのですね。私はどうだろうか?

皆のように明確に「これだ!」と言い切ることができない。前に記事を書いたときは、多くのものを挙げたが、それらを苦しい時に思い浮かべただろうか?それらを思って、立ち上がっただろうか?

私の場合、絶対的なものが存在しないのかもしれない。影響を受けた上司や先生もいなくなり、話すことも叶わない。

でも、苦しい時のつど、いろんなもの、人に支えられていたのでしょうね。きっとそうです。一人で耐えきった記憶はない。

できることならば、私も、誰かにとっての「シェリー」でありたい。ささやかな存在でもいいのです。その人にとって「シェリー」そのものでなくてもいい。そう思って、人に接しているつもりです。

少しでも、支えになれたら嬉しい。

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