前回(6月2日)、ブログで尾崎豊さんの『シェリー』について思いを書きました。
意外と反響があったようで、メールで、または話の中で、皆さんにとっての『シェリー』を教えてもらいました。
まずは家族。
これは基本ですね。そして定番です。しかし定番になり得るだけの、極めて深い思い入れがあるでしょう。
前にいた会社でがむしゃらに働いている30代の人がいました。「なぜにそこまでするのか?」という同僚の問いに迷わず、「家族のため、それ以外ない」と即答していました。家族が安心して寄りかかってくれるためには、俺がしっかりしなければならない、しっかりすれば、子供も安心して学校に進学させられる、という趣旨の話をしていました。
カッコいいですね。この方はきっと、うまくいかないときは、心の中で自問するのでしょう。「シェリー(家族よ)、おれは真実へと歩いているかい?」と。この方にとって真実とは、「家族の平穏な生活」なのでしょうか。
恋人。付き合っている人。
この歌の展開から言って、多くの人が『シェリー』とは恋人だと思うでしょう。
メールで教えてくれた人は、「今のままでいいよ、そこがいいのだから」と言ってくれる恋人が、私にとっての『シェリー』だと教えてくれました。このメールを見て、胸が熱くなりましたね。
ありのまま、つまりは欠点や、一般的でない趣味、性格、弱いところまで認めてくれる人が常にそばにいて、暖かい目で見守ってくれているのならば、「転がり続けて こんなところにたどり着いた」としても、前を向けるのでしょうね。立ち上がって、ふらふらになりながらも、進むことができるでしょう。
なんてロマンティックで、素敵だろうか。この人は、本当に素敵な人に巡り合ったのですね。
親。
わがままを言っても、無償の愛をかけ続けてくれる親は、精神的な支えになるでしょうね。
「シェリー?親だろうか」と教えてくれた人は、結婚後も迷惑をかけて婚姻も破たんしたが、その時でも唯一味方になってくれた親に申し訳なさと同時に、とても感謝していました。
ただ、心の中であっても、親を「シェリー」だと思うのは気恥ずかしい、とも言っておられました。そうでしょうね。私も同じ立場ならば、そう思います。
前にも書きましたが、尾崎は母親をイメージしてこの歌を作った、とも言われており、きっと、多くの「シェリー」好きには、同感する人も多いと思います。
お世話になった方。上司。先輩。先生。
意外?と、このような方もおられます。先生や上司は、自分が右も左も分からない時に、その世界で生きていくための術を教えてくれる人でもあり、かなり大きな影響を受けるハズです。
先生に教わった考えが、その人の人生の中で大きな精神的柱になることもあるでしょう。新人時代に、仕事への取り組み方を熱心に思いやりをこめて教えてくれた上司は、以後の社会生活にとって見本となり得る存在です。
漫画の話で恐縮です。「野球狂の詩」を知っていますか?ドリームボールという魔球を武器にプロで活躍する女性投手・水原勇気が主人公の、水島新司氏の野球漫画です。
水原には、東京メッツでの2軍時代にプロ野球選手のイロハを教わった武藤兵吉というベテランの先輩?上司か?がいました。「バッキローイ!」が口癖の少々荒っぽい先輩です。武藤はやがて広島東洋カープにトレードされ、そこで武藤はメッツを見返すため、水原のドリームボール攻略に野球人生を賭けます。
水原は武藤が去った後、数多くの苦難に直面します。その時、水原が真っ先に想った人が、武藤兵吉でした。水原は追い詰められ、ある時広島のカープ宿舎の武藤に電話をします。その時武藤は、電話先で水原が泣いていることを悟り、あえてふたりが一緒にいた時のように接します。「バッキローイ!」と。昔のままに接することが、水原を最も勇気づけると思ったのでしょうね。それを聞いて水原は感謝しながら泣き崩れます。無骨だが、「シェリー」になりうる、素敵な先輩ですね。
ちなみにその後、武藤は水原と対決、ドリームボールをバックスクリーンに叩き込み、そのまま現役引退。水原は、ドリームボールを打たれたら引退するといっていたが、それはせず、武藤を師として現役を続行します。野球漫画で最もすてきな話です。
・・・・皆、いろいろとあるのですね。私はどうだろうか?
皆のように明確に「これだ!」と言い切ることができない。前に記事を書いたときは、多くのものを挙げたが、それらを苦しい時に思い浮かべただろうか?それらを思って、立ち上がっただろうか?
私の場合、絶対的なものが存在しないのかもしれない。影響を受けた上司や先生もいなくなり、話すことも叶わない。
でも、苦しい時のつど、いろんなもの、人に支えられていたのでしょうね。きっとそうです。一人で耐えきった記憶はない。
できることならば、私も、誰かにとっての「シェリー」でありたい。ささやかな存在でもいいのです。その人にとって「シェリー」そのものでなくてもいい。そう思って、人に接しているつもりです。
少しでも、支えになれたら嬉しい。