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ブラック企業との戦いは「拙速」(下手でも速く)が望ましい

「最低ライン」と「撤退ライン」の引き方の参考図

実際の戦争では、その期間が長引けば長引くほど、戦争当事国にマイナスの影響を与えることになります。ブラック企業との戦いも、「戦い」である以上、その宿命を避けられません。長引く戦いは、当事者(特に労働者)に深刻な影響を与えます。

その点について「孫子の兵法」でも、”「兵は拙速(せっそく)を聞くも、未だ功久(こうきゅう)を睹(み)ざるなり。」”と説き、戦いの長期化に明確な警鐘を鳴らしています。 ※浅野裕一訳・孫子・第31刷・講談社学術文庫・2009年4月・32p

残念なことに労働紛争では、ブラック企業に対する復讐心から先の見えない泥沼にはまり、いたずらに戦いを長期化させてしまう労働者の方が多くみられます。このような平静を失った状態でも「拙速」の教えに立ち返り、戦いを素早く終わらせるようになるためにはどうしたらいいのでしょうか?

それには、労働紛争において「拙速」を実現するための留意点と具体策・手順を事前に知っておくべきでしょう。このページでは、それらについて詳しい説明をしていきたいと思います。

「孫子の兵法」の説く「拙速」(せっそく)の教えとはどのようなものか?

戦争を起こし、続けることは、莫大なお金がかかる

 古来より、戦争・紛争たぐいのものはお金がかかると相場は決まっているようです。いくら一国の君主・王様の権力が絶対であろうとも、兵を動かす費用を負担しなくていい特権までは与えられません。

 実際の戦争には、主に以下の費用がかかると考えられます。

  • 兵士に施す人件費・食糧費
  • 武器や防具の調達費
  • 城壁・砦の整備費
  • 諸外国・対等勢力・同盟諸国への戦略的工作費
  • 輸送品(軍馬・戦車・運搬車)の調達費
  • 食糧・物資輸送路の維持費・整備費
  • 食糧・物資の戦場への輸送費

 非常にたくさんの費用がかかりますね。漫画や映画における戦争シーンでは、これらの費用がかかっていることを思わせる描写はほとんどありません。私たちは「王様は制限なく戦争すらも行うことができる」と思っています。

 この中で最も国家の財政に負担を強いるのは、「食糧・物資輸送路の維持費・整備費」・「食糧・物資の戦場への輸送費」です。軍が戦争をし続けることを可能にするためには、武器・弾薬・補充兵員・食料を常に送り続けなければなりません。これらが前線の軍に届かなくなると、物資や食料不足によって兵員の士気はさがり、とたんに敗戦の色が濃くなります。

 過去の戦争において、勝者が敵の補給経路を断つことに心を砕いていたのはそのためです(例:太平洋戦争におけるアメリカ軍)。補給部隊は常に攻撃の対象とされ、補給部隊を守るための護衛部隊にも多くの費用がかかることになります。

 ここで「孫子の兵法」の作戦編を見てみましょう。ここでは、戦争を遂行するためには多くの費用がかかること、そして長期化した戦争が招く弊害について述べています。

 戦争が長引くことは、兵站線(食糧・物資などの輸送経路)の維持等に莫大なお金がかかるため、国家の財政を圧迫し、人民は重税にあえぐ。国家の性急な物資調達により物価は上がり、それによっても人民の生活を危機にさらす。その窮乏を見て、今まで同盟していた諸外国も反旗を翻し、そうなったらどのような優秀な人材がいても打開できなくなる・・・と。

戦争の長期化を全否定する孫武

 これらの現状を受けて孫武は本文中で、戦争の長期化を完全に否定します。

”「兵は拙速(せっそく)を聞くも、未だ功久(こうきゅう)を睹(み)ざるなり。夫(そ)れ兵久しくして国の利なる者は、未だ有らざるなり。」(だから戦争には、多少まずい点があっても迅速に切り上げるという事例はあっても、完璧を期したので長びいてしまったという事例は存在しない。そのそも戦争が長期化して国家の利益になったなどということは、いまだかつてあったためしはない。)” ※浅野裕一訳・孫子・第31刷・講談社学術文庫・2009年4月・31P~32p

 「未だ有らざるなり」という強い否定は、孫武の戦争に対する根本的な考えから導かれたものです。孫武は、戦争の非経済性を身に染みて感じていたのでしょう。「孫子の兵法」の代表的名言である「戦わずして勝つ」は、戦争の非経済性を知り尽くしていた彼ならではの教えだったのですね。 ※「上兵は謀を伐つ」でブラック企業に戦わずして勝つ! 参照。

 ブラック企業との戦いも「戦い」である以上、孫武の教えはとても参考になります。「拙速」の教えを、労働紛争に当てはめていきましょう。

「拙速」を心がけ、ブラック企業との戦いによって「家計が崩壊する」という最悪の状態を避ける

 ブラック企業との戦いにおいても、それが「戦い」である以上、非経済性の宿命からは逃れられません。実際の戦争との違いでは、規模やかかるお金のケタが違うくらいです。

生活費の重荷が、戦う労働者の精神と家計を弱らせる

 ブラック企業と戦っている間、平常時の給料を稼ぐことができる可能性は極めて低くなると言っていいでしょう。なぜなら、企業がしてくる不当な扱いは、そもそも経済的に窮地に追い込む行為が多いからです。配置転換にかこつけた減給・自宅待機命令による手当等のカット・突然の不当解雇による失職がいい例でしょう。

 収入が減った状態でも、生活にかかわる出費は待ったなしで発生し続けます。出費の中には、あえて支払わなくても生活できるものもありますが、それが簡単にできないのが現実です。なぜなら、私たちは生活レベルなど簡単に下げられないからです。平時に出費していたものを「抑える」行動は、労働者とその家族に大きなストレスを与えます。

「拙速」を軽視することは、家族の絆をも壊す事態につながりかねない

 ブラック企業との戦いが家計を圧迫する非経済的なものである以上、私たちはなるべく早く戦い自体を終わらせなければなりません。ここで「拙速」の教えが活かされるのですね。

 早く終わらせるために、準備に時間をかけ、宣戦布告後は計画どおり淡々と行動を進め、紛争期間中の節目に戦局を見通し、妥協や撤退も視野に行動を決します。得られる利益が理想の目標より低くてもいいので、少しでも早く終わらせることに心を砕きます。

 設定した目標に固執するあまり紛争が長引くと、遅かれ早かれ家計に深刻な影響を与え始めます。その影響が深刻になってくると、貯蓄の減少等による不満や不安から家庭内に不和が生じかねません。

 私自身が経験したダラダラと長引く労働紛争でも、貯めたお金があっという間になくなるという苦い経験をしたことがあります。家族内に倦怠感や嫌悪感が漂ったのを記憶しています。

「拙速」を実現するための3つのポイント

 「孫子の兵法」では、「作戦編」の最後にて、以下のように結んでいます。

”「故に兵は勝つを貴びて、久しきを貴ばず。故に兵を知るの将は、民の司命にして、国家安危の主なり。」(こうした理由から、戦争ではすみやかな勝利をこそ最高と見なして、決して長期戦を高く評価したりはしない。そうであればこそ、戦争の利害・得失を熟知する将軍は、人民の死命を司どる者であり、国家の安危を主宰する者となるのである。)” ※浅野裕一訳・孫子・第31刷・講談社学術文庫・2009年4月・38p~39p

 ブラック企業との戦いにおいては、戦う当事者たる労働者の皆さんこそが「拙速」をもって目的を達する有能な将軍になりましょう。そのための行動指針・ポイントをここで説明したいと思います。

 「拙速」を実現するためには大きく3つのポイントがあると考えます。それは以下のものです。

 それぞれのポイントについて説明していきましょう。

ポイント1:準備については、状況の許す限り「拙速」よりも「巧遅」で行う

 「巧遅」(こうち)とは、「拙速」の対義語です。「巧遅」とは、ゆっくり上手く、という意味です。「孫子の兵法」は「拙速」主義なので、「巧遅」はあまり歓迎されていないかのようです。

 しかし「孫子の兵法」を熟読してみると分かるのですが、戦いに至る過程においてはしっかりと時間をかけて取り組むことが要求されています。敵国情報の収集・外交圧力工作・スパイの活用による攪乱(かくらん)工作・廟算による勝算予測の徹底、などです。

 戦う意思が会社側に伝わる前(宣戦布告前)で、かつ、会社による圧力がそれほど強くないがゆえに職場にとどまっていられる場合は、準備にしっかりと時間をかけましょう。ゆっくりと時間をかけて、戦いを少しでも有利に進められるようになるための事前準備をしておくのです。主な準備は以下のものです。

  • 戦いの目的の設定
  • 勝算の測定
  • 戦いを乗り切るための経済的なメドを立てる
  • 「最低ライン」と「撤退ライン」を定める
  • 労働法の勉強
  • 証拠の収集

 これらの準備については別ページ・別カテゴリーで詳しく説明しますが、イメージをしてもらうためにも一通り触れていきましょう。

戦いの目的の設定

 「孫子の兵法」は、稀代まれなる戦略書です。この不世出の戦略書を活かして戦いに臨むということは、「戦略的思考に沿って戦う」ことを意味します。よって「最終目的(戦争の目的)」と「中間目標」の設定は、準備の最も早い段階で行っておくべきです。「最終目的」をはっきりさせないと、その後の準備は実に中途半端なものとなってしまいます。

 「目的」と「目標」は同じような言葉ですが、このサイトでは明確に利用方法を分けています。目指すべき頂上(最終的に望む結果・状態)に当たるのが「最終目的(戦争の目的)」、そして「最終目的(戦争の目的)」に到達するための中間的な到達点が「中間目標」となります。

 ※「中間目標」を達成するための「具体策」は、経済的なメドを立てた後に、己が紛争に費やすことができる「期間」「費用」と相談しながら設定する。

「戦争の目的」と「中間目標」の関係のイメージ図
「最終目的」と「中間目標」の設定は最初に行う

 「最終目的」の設定にあたっては、実現が不可能なものは避けましょう。実現が不可能な最終目的は、労働紛争を長期化させ、「拙速」のメリットを受けられなくなってしまいます。

 しかし労働紛争を決意した労働者の中には、「ブラック企業と正面きって戦うこと」それ自体に意味を見い出す方もいらっしゃいます。実は、「正面きって戦うこと」が「最終目的」となっている戦いは多く存在するのです。私自身、そのような目的で救われた者の一人です。

 「最終目的」「中間目標」「中間目標を達成させるための具体策」の詳しい設定方法や考え方は、以下を参照にしてください。

勝算の測定

 「孫子の兵法」を参照にして勝算を測るのであれば、「五事七計」によって勝算を測り、あらためて「5条件」に基づく検証でどちらが勝つかを予測するのが王道です。

 「孫子の兵法」における「5条件」とは、勝利を予知し「百戦危うからず」を実現する要素だと孫武は説きます。「5条件」は以下の通りです。 ※浅野裕一訳・孫子・第31刷・講談社学術文庫・2009年4月・53p

  • 戦ってよい場合と戦ってはならない場合を分別している
  • 大兵力と小兵力それぞれの運用法に精通している
  • 上下の意思統一に成功している
  • 計略を仕組んでそれに気づかずにやってくる敵を待ち受ける
  • 将軍が有能で君主が余計な干渉をしない

 「5条件」の最初である「戦ってよい場合と戦ってはならない場合を分別している」については、まず「五事七計」で勝算を測定してから検討します。測定で出た勝算の量は、「戦ってよい場合」か「戦ってはならない場合」かを考えるのです。

 その他の4条件についても、「五事七計」による測定と同じく、我と会社側の現状をもとに比較します。

 「五事七計」による勝算の測定方法と「5条件」による勝利の予知方法の詳細は、以下を参照にしてください。

戦いを乗り切るための経済的なメドを立てる

 まず、労働紛争が家計に与える影響を考えます。一体どのようなものにお金がかかるのか、冷静に挙げてみます。私が経験したり聞いた限りでは、以下のものが挙げられます。

  • 生活費
  • 専門家に頼むなら、着手金・報酬など
  • 労働組合に加入するなら、組合費など
  • 本代・内容証明郵便代など
  • 紛争解決機関の利用代金・手数料など

 これらの中で最もお金がかさむのは、やはり生活費です。生活費は毎月情け容赦なく出ていく「経費」です。「経済的なメドを立てる」と「紛争期間中の生活費の把握」は同義語だと言っても過言ではありません。予想される範囲内で、具体的に、振り込まれる日、引き落とされる日も図にして視覚化し、把握することです。

 具体的な経済的なメドの立て方については、以下を参照にしてください。

「最低ライン」と「撤退ライン」を定める

 すべての労働紛争が会社側と裁判等の激烈な戦いを展開するわけではありません。紛争過程においては、会社側と交渉する機会もたくさん存在しますし、話し合いだけで終わる場合もあります。その場合、両者が納得できる着地点を模索するのが一般的ですが、我々労働者はあらかじめ最低ライン・撤退ラインを決めておくと、交渉に臨むときに慌てずに済み便利です。

 「最低ライン」「撤退ライン」ともに、勝算の測定と経済的なメドを立てた後だからこそ、ライン引きができるようになります。

 「最低ライン」設定についての大原則です。労働者が法律の基準以下で妥協することはあってはなりません。それでは家計を危機にさらしてまでブラック企業と戦いをした意味がなくなってしまうからです。

「最低ライン」と「撤退ライン」の設定のイメージ図

 最低ラインの具体例は以下のようなものとなるでしょう。不当に解雇された労働者の例です。

「不当な解雇は認められないが、会社も争う姿勢である以上解雇撤回を勝ち取るまでには大変な時間がかかるだろう。そのような解雇をする会社に対し信頼も忠誠心も失くした。よって、残っている有給休暇を全日消化することと、現在退職した場合における最高額の退職金をもらうことの2つだけは、必ず認めさせる。」

 労働者は次のように考えにより、上の最低ラインを設定したのです。

 「解雇権濫用による解雇の無効を勝ち取りたいが、それにはあまりに時間がかかるし、この会社に未来を預けることは不安となった。ならば、退職する場合における労働者の権利を余すところなく認めさせることを最低ラインにしよう。最低ラインを認めさせれば、しばらく収入は入ってくるので、その間に次の職場を探す機会を得られる。」と。

 「撤退ライン」についてです。勝算が完全になくなったことがはっきりした場合や、生活費が困窮した場合が撤退ラインとされることが多いでしょう。生活費にかかわる撤退ラインは、完全に困窮しきったところでライン引きせず、かなり手前の金銭的余裕がある辺りをラインとするべきでしょう。

労働法の勉強

 目的を定めたら、それを実現するためにあなたが主張できる権利と手段を学ぶことになります。おそらく勉強をする前からうすうすとわかってはいるでしょうが、裁判になることも想定して、ここで権利と手段を明確に把握するのです。

 またもや不当解雇の例で話しましょう。不当解雇を争う場合、まず会社が労働者を解雇するうえで課せられる法律上の条件を学びます。条件の内容を知れば、会社がその条件をクリアしたか検証でき、かつ、クリアしてないならその点で解雇の無効を主張できます。そしてその主張を裏付けるための証拠も、何がふさわしいか明確になります。

 このように労働紛争の過程における勉強では、主に「会社の行為のどこに違法性があるのか」「違法行為について労働者はどのような権利を主張できるのか」「違法性を証明するためにはどのような証拠が必要か」を学ぶことになります。

証拠の収集

 勉強をすることで、あなたの主張を裏付けるための証拠は何か?がわかります。必要な証拠がわかったら、さっそく集めましょう。

 証拠の収集は宣戦布告をした後では難しくなります。よって準備段階における手順に入っているのです。解雇理由証明書や賃金台帳など、会社に直接請求しなければならないもの以外のものは、こっそりと収集しましょう。

 パワハラや社内イジメなどの証拠は、録音記録から作った反訳書が有効となるため、相手が油断しているうちに言動を押さえておきます。宣戦布告をした後では相手は警戒してしまい、問題の行動は記録しにくくなります。

ポイント2:宣戦布告後は「拙速」を実現するために淡々と行う

 会社に宣戦布告した後は、準備段階で決めた中間目標の中で最も優先順位の高い目標を達成するために、具体策に取り組み始めます。

 「拙速」を実現するためには、行動した結果に「完全を求めないこと」が重要なのです。ある具体策を行い、出た成果がかんばしくなくても、それに気を病まず、計画通り先へと進んでいきます。

 労働紛争も当然に相手がいるから成り立つ戦いです。相手の思惑や抵抗によって結果が左右されるのは当然のことです。行動した後に出た成果こそ、今得ることができる最大限の成果だと割り切り、先へと進みましょう。

ポイント3:区切りにおいて戦局を眺め、「最低ライン」での妥協、「撤退ライン」での撤退も考慮する

 長引くブラック企業との戦いの期間中にも、「区切り」というものは必ず存在します。例えば、話し合いが決裂したとき。例えば、家で緊急の事態が生じたとき。例えば、民事調停が不調に終わったとき・・・。

 「拙速」を実現するためには、これらの区切りにおいて戦局を公平に見つめ、勝算の変化を把握し、「徹底抗戦か、最低ラインでの妥協か?」を考えることが有効となります。また、すでに撤退ラインに限りなく近づいている場合は、戦意の喪失が顕著であるならば、撤退も視野に入れることも「拙速」実現に役立ちます。

 「妥協」「撤退」のいずれかを選ぶことは、「泣き寝入りしたのではないか?」というマイナスの感情を引き起こすことがあります。しかし事前に決めたラインを参考にして決断をすることは、高度な計算によって導かれた合理的な行動であり、みじめな気分だけを味わう「泣き寝入り」とは一線を画すものです。

 人それぞれ「区切り」の内容は変わってきます。あなたの戦意や考え方に変化を及ぼすような出来事は「区切り」であると考えてよいでしょう。頻繁に心境に変化が訪れるような人は、その都度戦局を眺めてください。戦局を眺めることに「し過ぎ」ということはありません。

 ブラック企業との戦いにおいて「拙速」を心掛けることの意義は、「惨敗をしない」ことだと言ってもいいのです。なぜなら、「区切り」を多く見い出しそこで戦局分析をしっかりと行うことは、惨敗を防ぐことに最も役立つ行動の一つだからです。

 

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