アメリカの大統領であるE・リンカーンの言葉でこんなものがありました。
「世の中の半分に反対されるぐらいであるならば、とてもうまくやっている方だ」
半分の人に反対される・・・つまり20人いたら10人の人間が反対。100人いたら50人が反対する・・・。とても反対者が多いような気がしますが、リンカーンは、「それくらいならば、あなたはとてもうまく立ち回っているのですよ」と言う。
リンカーン自身、アメリカの半分を敵に回して戦争をしました(南北戦争)ね。その経験がある彼だから言い得る言葉でしょうか。
私は、社会人になって、この言葉の言っている意味が初めて理解できました。
働くようになれば、己の仕事を遂行するうえでどうしても人とぶつかってしまう。ましてや他人に仕事を教えたり、人を管理する仕事に携われば、嫌われたり避けられることは避けられない。
置かれた立場ゆえとはいえ、人に嫌われること、明確に反対されること、敵意をもって罵倒されることは、私には辛く、苦しい経験でした。
私は学生の頃、とにかく、嫌われたり陰口をたたかれるのが嫌いで、いや、怖くて、いつも同級生らには当たり障りのないことをはなしていました。今でも私生活では、人のことをとやかくは言いません。
しかし仕事となるとそうはいかないのですね。言わざる得ない状況に追い込まれる。皆、己の仕事を効率良くこなさなければならなかったり、少しでも楽して処理したいため、そこで人の思惑がすれ違ってぶつかり合う。
管理者であればなおのことですね。さぼりたい部下、ゆるく仕事をしたい部下がいれば、指摘し、時に叱責しなければならない。そこで直接的に煙たがられる。
私もその立場に置かれ、多くの人とぶつかりました。
一時は、半数以上、いや、7割以上の人間に嫌われましたね。口もきいてくれない。無視をされる。いまでも、そこにいけば白い目を浴びせられる。
腹が立ちましたよ。そして悔しかったですね。受け入れられなかったです。
リンカーンの言葉はすでに知っていたが、いざ自分がその立場になると、なかなか割り切ることはできなかったのです。
毎朝、起きて仕事に行くことが辛かった。怖かったし、嫌っている連中のそばを通ることが、できなかった。敵意を持ってみられることが、これほど心にダメージを与えるとは思わなかった。そう思っているうちに、被害妄想にもなってきました。
いろんな本を読んで、拳法をして、きれいな景色を見て、やけ食いをして、そんなことをしても解決はできませんでした。ある心理状態になるまでは。
その心理状態とは・・・・その状況に慣れてしまうこと。あきらめてしまうこと。
人間って、すごいですね。どのような状況にも慣れてしまうのですね。私の場合は、人に嫌われることに慣れただけですが、世界では、もっと過酷な環境・人間関係にも慣れて、それを受け入れて生活している人がいるのですね。
だからといって、「世の中にはもっと苦しい環境におかれた人もいるのだから、我慢しろ」と言うつもりは全くありません。そんな言葉、私にとっては何の励ましにもならなかったのですから。
ただ、今が苦しい状況ならば、自分の今の現状をまずバカにし、笑い、もういい、どうにでもなるさ、なるようになるさ、とあきらめて欲しいのです。
現状をあきらめ、「どうでもなるさ、だから私は私らしく進むのさ、反対する奴は反対しろ、そのかわり、こちらも言われっぱなしではないぞ!やりたいようにやるぞ!」と開き直る・・・そうすることが、こんな気弱な自分をどうにか立ち上がらせてくれました。まさにケ・セラ・セラです。
そう思っても、苦闘は続きましたが、かなり楽にはなりました。
その開き直りがなければ、組合で使用者の暴言にさらされることはできなかった。人間否定をされても、言った人間と相対することができたのは、この「あきらめ」と「ひらきなおり」の気持ちを持てたからでしょうか。
きっと、この記事を読んでいる人のなかにも、人の批判や嘲笑、陰口にさらされている人がいるでしょう。会社と戦っている人ならなおのことです。思いがけず、人の上に立った人ならば、嫌われ者になってしまったかもしれません。
でも、追い詰められることはないです。落ち込むことは仕方ないですが、追い詰められて、自分を否定することはないです。
現状を笑い、あきらめ、そしてひらきなおる。時の経過も必要でしょう。
私も同じです。今も人に批判され、笑われています。多くの否定的な意見にさらされています。
どうせなら、一緒にあきらめてしまいませんか。そして、一緒に、じっと時がすぎるのを待ちませんか。
梅雨が明け、花火が上がり、涼しくなり、そして初雪が降るころには、状況は変わっているかもしれない。いや、きっと変わっている。良くなっている。街角の澄んだ景色を、ビル街の灯りを、ショッピングモールの暖かい光を、そしてイルミネーションを、今よりずっと楽な気持ちで、見ている自分が、きっと、いるはず。