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ハーバード流交渉術4戦術~人と問題を切り離せ

原則立脚型交渉のスタイルの代表的交渉術である「ハーバード流交渉術」には、4つの基本戦術が存在します。それは以下のものです。

  • 人と問題を切り離せ
  • 立場でなく利害に焦点を合わせよ
  • 複数の選択肢を用意せよ
  • 客観的基準を強調せよ

これらの戦術は、いかなる状況の下でも用いることができる交渉の正攻法だと、著者は説明しています。

昨今の交渉術の精密化には目を見張るものがあります。しかしプロのネゴシエーター(交渉人)でもない私たちには、そのような複雑な交渉術をマスターする時間も機会もありません。

ハーバード流交渉術は、その内容が世に出てから四半世紀以上もの歳月が経過してますが、いまだその内容は色あせることはありません。労働紛争における交渉では、この定番交渉術をマスターしておけば、かなり有意義な交渉ができるでしょう。

このページでは、4戦術の最初「人と問題を切り離せ」について、その内容を説明していきます。

「人と問題を切り離せ」とは何を言っているのか?

 「人と問題を切り離して交渉する」という戦術は、3つのすべきこと(正確な認識を持つ・感情を発散させる・意志の疎通を図る)と、より効果を上げるための対策(先手を打つ)をしっかりと行うことが効果的だと、本文中で述べられています。

  • 正確な認識を持つ(当戦術を達成するためにすべきこと)
  • 感情を発散させる(当戦術を達成するためにすべきこと)
  • 意志の疎通を図る(当戦術を達成するためにすべきこと)
  • 先手を打つ(より効果を上げるための具体策)

 当ページで、3つの「すべきこと」と、1つの「効果を上げるための具体策」について、詳しく説明していきましょう。

「人と問題を切り離せ」の全体像

正確な認識を持つ

 会社による理不尽な行為が行われ、あなたがその行為について撤回(もしくは十分な説明)を求めるために会社側の交渉担当者と交渉に臨む場合を想像してみましょう。

 労働紛争における交渉は、双方が格段に感情的になりやすい交渉のうちの一つだと、労働紛争での交渉の特徴~双方が非常に感情的になりやすい で述べました。

 会社が当該労働者に問題となった行為をするには、ほとんど何かしらの理由(その理由には、止むにやまれない理由からくだらないものまでたくさんある。ほとんどが取るに足らない理由。)があります。そのために労働者が何か行動を起こさない限り、その行為が撤回されることはほとんどありません。

 逆に労働者の方も、今回の行為が法律上では違法であることを知っており、それなのに「当然」のような顔をして不当な行為をする経営者に強い不信感と怒りの感情を持ちます。

 労働者が法律を盾に権利を主張することで、経営者は「従業員のクセに」「ここは俺の会社だぞ、嫌なら辞めろ」という気持ちを抱き、従業員に対しより一層ごう慢に接します。そしてその態度が再び従業員の怒りを買い・・・泥沼の感情戦争になっていくのです。

 ハーバード流では、双方が相手側の主張や考え方・利害について、正確な認識を持つことを求めています。正確な認識を持つことで、人と問題を分離し、冷静で合理的な話し合いの時間が持てるようになる、と述べています。

 しかし、これだけ信頼関係が崩れた労働紛争の交渉において、双方が正確な認識を共有することは可能でしょうか?私としては、例えその試みが難しくてもはチャレンジしてみる価値はあると思います。

 なぜなら、経験した紛争においても、誤解から事態が無駄に悪化したケースが多々あったからです。もし相手を正確に認識していたならば誤解が生じるのは少なくなり、建設的な選択肢をより多く持つことができたと思われます。

 ハーバード流では、正確な認識を持つための具体的な手段として、以下の7つの方法を挙げています。これらの7つを念頭に交渉に臨むことで、人と問題を分離し、問題解決のために労力を集中できるようになります。少なくとも、相手側の人格を攻撃したり、こちらのプライドにこだわる、といった問題解決に非効率的な行動に時間を割くことが少なくなるのは間違いありません。

  • 相手の立場になって考える
  • 危惧の念から相手の意図を推測しない
  • 自分の問題を相手のせいにしない
  • お互いの物の見方について、じっくり話し合う
  • 相手の意表をつく行動をとる
  • 相手を検討過程に必ず参加させ、結果に責任をとらせる
  • 顔を立てて相手の価値観と一致する案を出す

 これらの手段を、常に実行する必要はありません。冷静さを失いがちになる傲慢な経営者との交渉では、全部を念頭に行動するのは困難です。しかし、人と問題を切り離し、建設的な交渉を進めるための留意点として頭の片隅に入れておいて欲しいのです。どの手段も実に有効だと思いますが、特に基本だと思われる留意点について、労働紛争に絡めて解説していきましょう。

相手の立場になって考える

 これは相手を正確に認識する上で、スタートとなるべき点です。

 人間というものは、立場が変われば考え方もガラリと変わってしまいます。例えば、労働者は少しでも多くのお金が欲しい。そしてもっともっとゆとりを持って生活したいのです。逆に経営者は、給料として払う金額を少しでも抑えたい。そして人件費を少しでも少なくしてより多くの利益を上げたいのです。

 ある不当な行為が発生したとします。その時「なぜ会社側はこのような行為をしたのか?」と思いを巡らせてみるのもいいかもしれません。相手の立場になったつもりで考えてみるのです。しかし「自分にも非がある」と考えて、権利主張の決意を鈍らせることまでする必要はありません。不当な行為をした事実は消えないのですから。

 あくまで「なぜ?」と考えればいいのです。思いついたことを紙に書き出しましょう。

 相手の立場になって考えることで、4原則の一つである、【立場ではなく、利害に焦点を合わせて交渉する】を実行できるようになります。怒りに身を任せ、相手の主張の裏側にある真意を読むことができないと、相手の強行な姿勢を緩めることができなくなり、最悪の結果を避けることができなくなります。

危惧の念から相手の意図を推測しない

 「危惧の念から相手の意図を推測しない」・・・少し分かりにくいかもしれません。つまり「相手側の言動を悪い方向で受け止め、心の中で勝手に相手を敵視すること」です。

 これもとても重要な留意点だと言えます。なぜなら私たちは、友達同士の日常の会話の中ですら、相手の言ったことや行動を我に悪い方向に受け取る傾向があるからです。

 感情的な対立がすでに出来上がっている労働紛争中の交渉の場ならば、その傾向はより一層強まるでしょう。ケンカ腰にならなくてもいいような場面ですら、悪い方向に推測する結果、争いの場に変貌してしまうかもしれません。

 相手について正確な認識を持つならば、相手の言動を悪い方向で勝手に推測する傾向は改めないといけません。悪く推測する前に、相手の言動の意味を考えてみましょう。ストレートに相手側に確かめてみるのもいいかもしれません。その答えが最悪のものであったならば、それは真実として受け止めるまでです。勝手に推測して悪く受けとめるのとは全く意味が違います。

お互いの物の見方について、じっくり話し合う

 不当な行為は、互いの物の見方のズレから生じた可能性もあります。じっくりと話し合うことで、ズレを解消することができるかもしれません。これも相手を正確に認識するうえで役に立つ手段です。問題が発生しそうな場合は、激しい行動に出る前に相手側と冷静な話し合いをする場を持ちたいですね。

 具体例で話しましょう。ある労働者が朝礼の場で「最近会社によって強引に行われている、リストラの一環としての解雇」について上司に厳しく問い詰める事件が発生し、その労働者には即刻解雇通知が下りました。当然当該労働者は「正当な理由もなく、適正な手続きも踏まない不当解雇」だとして、会社側に解雇通知の撤回を主張します。

 この会社の経営者は、なぜ朝礼で一上司に詰問したくらいで即刻解雇にしたのでしょうか?そこには、互いの物の見方にズレがあったのかもしれません(もちろん、ズレがあったからといって不当解雇は容認されるものではありませんが)。

 この会社の経営者には、従業員が適正な手続きも踏まないで会社に意見を言うことをとても嫌う傾向があったのかもしれません。かたや当該労働者は、上司だろうが先輩だろうが納得できないことについては疑問を激しくぶつける環境の中で社会生活を送ってきたのかもしれません。2者の間には、意見をぶつけ合うスタイルに大きな違いが見られます。

 このズレによって生じた労働問題は、両者がじっくりと話し合うことで緩和されるかもしれません。また事前に話し合うことで、労働者の朝礼での詰問も避けられたかもしれないのです。話し合うことによって、労働者は一連の解雇騒動について事情を知る担当部署責任者から詳しい説明を受けることができたかもしれません。場合によっては、経営者と労働者が腹を割って話し合う場が作られ、解雇される従業員に対する何らかの温情策が取られたかもしれないのです。

顔を立てて相手の価値観と一致する案を出す

 相手の顔を立てることは、労働紛争における交渉において重要なことだと考えられます。

 経営者の多くは、従業員に対する妙なプライドを持っています。要は「下の人間」だと見下しているのですね。それ自体はとても不愉快なことですが、そのプライドを真っ向から打ち崩すような交渉は、確実に経営者の激しい怒りを招きます。

 相手の立場になって考え、そしてじっくりと話し合った後ならば、経営者が何を考え、そして何を目指して不当な行為に出たのか分かります。こちらの配慮をもって、抜いた刀をサヤに収める手助けをしてあげましょう。

 例えば先ほどの解雇撤回要求の例を見てましょう。経営者は労働者との話し合いで解雇を撤回してもいいと思った。しかし経営者は、一度出した命令を労働者の反発のためにいとも簡単に撤回するのは少しみっともない、威厳が無い、と感じていた。そのような場合は、「経営者の勇気ある決断で解雇を撤回してもらった」というような形で事態を収拾できれば、経営者もすんなり撤回に応じるかもしれないのです。

感情を発散させる

 人と問題を切り離して交渉するためには、双方(特に相手方)の感情を発散させることが重要だと、ハーバード流交渉術では説いています。そこで、感情を発散させる際の注意点を5つ挙げています。

  • 自分と相手の感情を認識し理解する
  • 感情は隠さず当然のことと認める
  • 相手に感情を発散する機会を与える
  • 感情の爆発に対しては反撃しない
  • こちらの気持ちを態度で示す

 各注意点について、以下で詳しく説明していきましょう。

自分と相手の感情を認識し理解する

 相手が感情的になる理由を考えてやることが、感情の悪化による交渉決裂を防ぐための第一歩です。

 ハーバード流交渉術では、相手が感情的になる理由を考えることが、感情問題を克服する上でのスタートだと考えています。

 相手がなぜそのように感情的になってしまうのか分かってやろうとすることは、相互理解の大きな一歩だということは、とても理解できます。

 相手の感情を理解するためには、こちらの持っている感情を分析することから始めると分かりやすいでしょう。なぜ自分はこのような感情を持ってしまうのか考えます。そして自分の感情について考え終わったら、相手がなぜあのような感情を持つのか考えます。

 相手があのように感情を持つのは、自分で置き換えても理解できるかも・・・などと考えることで、相手の立場や気持ちを理解することにつながるでしょう。分析した結果が許し難いことであっても、相手の考えのほんの少しの部分でも理解したことによって、それを踏まえた作戦や計画も立てることできます。

感情は隠さず当然のことと認める

 交渉は、相手とこちらの利益のぶつかり合い。それゆえ感情的な一面が出るのは致し方ないことです。

 ハーバード流交渉術では、湧き上がる感情を相手に素直に話し、また素直に聞きだし、感情を抑える労力から解放されるべき、と説いています。

 自身の心中に湧きあがる感情を相手に話すことは、双方が本音で話し合いをしている、という安心感と親密感をもたらします。

 労働紛争における交渉当事者は、双方全く知らない者同士、ということは少ないものです。感情を隠さず率直に話し合いをする姿勢を示すことは、知らない者同士が交渉する時よりも、より容易に親近感を増すことに貢献するでしょう。

相手に感情を発散する機会を与える

 相手の感情の爆発を黙ってを聞く行為は、双方の関係改善(構築)に大きな意味を持つでしょう。

 人は自分の持っている不満や怒りに真摯に耳を傾けてくれる人間に共感を覚えます。そしてスッキリとした気分になり、幾分冷静になります。

 ハーバード流交渉術では、黙って相手の感情を発散させる行為は、相手自身の立場も良くする、と書いてあります。こちらが相手側の感情を発散させてやれば、相手は交渉時に激しく言い分を主張できたことになり、「豪傑である」「頼りになる」と相手側の人間から評価されることになります。評価されると、相手側の交渉担当者は交渉上の権利を一層獲得できるかもしれない・・・だから私たちは相手側の感情を黙って発散させてやれ・・・と書いてあります。

 ここで考えてみます。労働紛争において相手とは、多くの場合会社経営者、もしくは人事担当者です。相手の立場を良くすることは、意味があるのだろうか?私は意味があると思います。

 紛争になってこちらが優勢であっても、経営者がメンツや体面から意地になってしまっている場合、交渉はぶち壊しになるかもしれません。解雇事例で話しましょう。解雇が無効であっても、経営者が「労働者との紛争で負けて解雇を撤回した」と陰口を叩かれるのを恐れて、訴訟や労働組合闘争に発展するのを覚悟で無理やり解雇を強行してくるかもしれません。

 「そうなったら、訴訟や労働組合闘争で勝てばいいじゃないか」と考えるかもしれません。経営者のメンツや体面を重んじる行為から紛争がこじれてしまうのは、労働者にとっては大きな痛手となります。例え組合闘争等で勝ち解雇を撤回できたとしても、経済的・精神的損失は大きくなります。

 労働紛争もその他の戦争・争い事と同じで、長期化は双方(特に労働者)にとって敗北を意味します。紛争長期化の可能性を少しでも減らすために、できることは全てしておきたいですね。そのために相手の感情を発散させるのです。発散させて相手の立場を良くしてやり、人間関係の再構築を図ります。

 しかし原著では、感情を発散させるために相手の感情の爆発を黙って聞くからといって、言われる内容に合意するべき、とは書いてありません。黙って聞くことと合意は全く別です。

 黙って相手の感情の爆発を受け止めることで、双方の関係の改善と相手の立場の向上を図る、それだけが具体的な狙いなのです。

感情の爆発に対しては反撃しない

 感情の爆発に反撃しないこと・・・それは、さきほども述べたように、交渉がぶち壊しになって紛争が長期化することを防ぐための一つの方法です。

 ハーバード流交渉術では、感情にあおられたののしり合いからは、何も生まないと考えるのです。感情の爆発に対しては反撃しない、そのかわり相手の感情に圧倒されて安易に合意などしない、と説いています。

 労働紛争において、相手側の感情の爆発に対してこちらも感情をぶつけると、相手はその立場を利用してより一層卑劣な手段を使ってくるでしょう。考えられるのは、即刻解雇、賃金の大幅カット、賞与不支給、社内での無視等のイジメ指令、監視カメラを全部当該労働者に向けて圧力をかける、などです。

 法律に違反しているかどうかなど、どうでもいいのです。こちらの言ったことに感情的に反発したことが許せないのです。とにかく気に入らないのです。労働者は俺の会社で働かせてやってる、その飼い犬が飼い主に反発するとは何事か!と心の中で思っているのです。そして「とりあえず辞めさせたい」と思っているはずです。

 こちらが相手側の感情の爆発に反撃することは、相手の心の中の「良心のブレーキ」を完全に取り払うことになります。開き直った相手と戦うことは、大きな体力をつかい、臨む結果を得にくくします。

 相手の感情を発散させて関係を少しでも改善し、「良心のブレーキ」を取り払わせないようにしましょう。

こちらの気持ちを態度で示す

 気持ちを態度で示す・・・つまり、謝罪や贈り物をせよ、と言ってるのですね。

 労働紛争において相手にわびるということは、なかなかできることではありません。そしてめったに無いことだと言えます。労働紛争で穏やかな就業環境を破壊された私たちは、心の中で経営者に激しい怒りの感情を持っているのが普通だからです。

 加えて、わびを入れたら「屈服した」と思われるかもしれません。怒りの対象たる相手にそう思われるのはとても悔しいものです。屈辱ともいえるでしょう。

 しかしめったに無いことゆえ、こちらがわびをいれたら、相手は大いに意表を突かれるかもしれません。そして違った感情を生む可能性もあります。

 もしあなたの労働紛争が、相手側に人間的な憎しみを感じることが少ない紛争ケースならば、こちらの非についてわびを入れておくのは大きな効果を生むかもしれません。

意思の疎通を図る

 原著では、交渉とは「共同決定に至るための意思の交換と疎通のプロセス」だと説明しています。分かりにくいですね。つまり、交渉とは、「互いの考えていることを見せ合い、それについて互いに理解し、そのうえで双方の利益を満たすような解決策を見いだす作業だ」と言っているのです。

 これを実現するためには、相手の考えていることを誤解なく理解し、かつこちらの考えていることを正確に相手に伝えることが必要となります。そうして初めて、双方の利害を満たすような案を共同で模索することができるのです。

 「意思の疎通をはかる」ために留意すべき主なポイントは以下の3つです。

  • 積極的に聞き、相手の言っていることをまともに受けとめる
  • 相手に理解されるように話す
  • 相手のことではなく自分のことを話す

 労働紛争における交渉において、意思の疎通を図ることは、一番難しいかもしれません。そのことも念頭に置きつつ、各ポイントについて詳しく説明していきましょう。

積極的に聞き、相手の言っていることをまともに受けとめる

 相手の言っていることを、まともに、真剣に聞くこと・・・なんだ簡単なことじゃないか・・と思われるかもしれませんが、一体どれほどの人が相手と議論や交渉をしているときに相手の話を真剣に聞いているでしょうか?

 あなたも自分の例に置き換えて考えてみてください。議論をしている時、相手の話を聞きながら、相手の言ったことにどのように反論してやろうか?とか、どうしたら相手を言い負かすことができるだろうか?と考えていたことはありませんか?話を聞きつつそのようなことを考えていて、相手の話の核心や本当に言いたいことを、正確に理解することができるでしょうか?それはかなり難しいでしょう。

 いかに相手に反撃するか?という考えで頭がいっぱいの人は、多くの場合、相手の話の内容を悪い方向で受け止めます。労働紛争の例で考えてみても分かります。例えば賃金を大幅にカットされた労働者が、経営者にカットの撤回を陳情したとします。経営者は「陳情」を「反発」だととらえ、より過酷な仕打ちに走ることがあります。それは「賃金カット」に対し「陳情」という行動を起こしたことが気に入らなくて、その後の言動すべてを(たとえ陳情の場で労働者の言動がいくぶん紳士的であっても)悪い方向にとらえた結果なのです。

 これでは労働者の意図は伝わりませんね。ではどうしたらいいのか?労働者は、義務以上のものを背負う必要はないが、権利以上のものを得ることもできない。この事例では、労働者は権利以上のものを望んでいる訳ではないのです。ただ、以前の普通の状態に戻してもらいたいだけです。

 その意思を言動に反映させて、まずは相手(経営者)の言っていることをじっくりと聞くことをすべきです。経営者が賃金カットをした理由を、腹を割って真剣に聴くことです。反発心に覆われる気持ちはわかりますが、まずは聞いてみて、その上で相手に「話を聞いてあげた恩」を与え、こちらの話も真剣に聞いてもらう、という可能性を作り出します。

 交渉で双方が納得のできる案を作り出すには、互いが相手の言い分をしっかり理解することが必要になります。その土台を作るために、相手が話を聞かないなら、まずはこちらから相手の話をしっかりと聞き、そのうえでこちらの言い分を聞いてもらうのです。相手の話をしっかりと聞いたって、相手は態度を変えないかもしれません。しかし双方が相手に対する敵対心を打ち出しながら話をしていたのでは、間違いなく交渉は物別れに終わってしまうでしょう。

 ハーバード流交渉術では、相手の話を真剣に聴くことは、相手のかたくなな心を緩めることにつながる、という可能性も示唆しています。

相手に理解されるように話す

 相手(会社側)の話をしっかり聴くことができないのと同じくらい、相手に分かりやすく話す、ということも難しいものです。

 そもそも、心の底から相手に分かってもらおうと考えて己の考えを伝えている人はほんの一握りでしょう。心の中では、「相手に攻撃すること」だけを目的に痛烈な言葉で自論を飾って相手にぶつけたり、己の不満解消のために一方的にまくしたてる、というケースが多いのです。

 原著では、相手を「横たわる問題を共同で解決するための協力者」として考えています。その視点から考えると、相手を敵とみなし、攻撃的な言葉をぶつけ続けることの無意味さを感じると思います。

 双方が相手側の考え・利害を理解するために、まず何より相手の話をしっかりと聴く。そして次に、相手に己の考えをしっかりと分かってもらうために、極力分かりやすい言葉で丁寧に説明をしていく。あなたがそのような考えで臨んだとしても、相手側は攻撃的な姿勢を崩さないかもしれません。しかししっかりと聴き、かつしっかりと説明することで、攻撃的な姿勢を崩さない確率は大幅に低くなります。

相手のことではなく自分のことを話す

 相手のことは、私達には分からないのが普通です。私たちは相手の心や考えていることを読むことができるエスパーではないのですから。相手の言動を勝手に解釈し批判することは、相手からの激しい反発を招くことを意味します。

 私個人の経験として、他人に自分の考えていることや意図を勝手に断定されると非常に困惑します。多くの場合、勝手に断定された後は批判が待ち受けています。外目に見えてわかりやすい行動であっても、本人の意図は違うところのあるのかもしれません。私自身、その点で何度、相手を誤解したことかわかりません。

 ましてや労働紛争における経営者の不当な行為は、私たちの平穏な日常生活に直接的な影響を与えるものが多いため、怒りから「悪意に満ちた身勝手な行為」と判断してしまいがちになります。そこで相手への激しい批判が繰り出され・・・話し合いは物別れに終わってしまいます。

 労働紛争における交渉では、相手の言動を非難する時間を極力カットします。原著でも、「あなたは~だ」と決めつけるよりも、「今回の事態について、私は~でとても不利益を受けています」と自分のこととして話す方が望ましい、と解説しています。

 先ほどの賃金カットの話を例に考えてみましょう。

 一方的な賃金カットを受けて、経営者に「賃金カットは違法であり、あなたの行為は不当で許されない。もとに戻せ。」と糾弾すれば、当該経営者は攻撃をされたとして開き直り自己防御に走り、猛烈な反論をしてくるでしょう。しかしここで「賃金カットをされるとこちらの生活は大変苦しくなります。私は大変困っています。どうかもう一度再考をしていただけませんか?」と伝えたならば、経営者はカットをしないための道筋を示してくれるかもしれないのです。

先手を打つ

「先手を打つ」とは?

 最後に、「先手を打つ」について説明していきましょう。

 原著においては、「人と問題を切り離せ」を支える3つ(正確な認識を持つ・感情を発散させる・意志の疎通を図る)をより有効に易しく行えるようにするために、「先手を打つ」ことを勧めています。

 「先手を打つ」の中身を具体的に言うならば、交渉の前段階において、あらゆる手段を用いて、パーソナルな部分における愛着やつながりを構築せよ、ということです。

 究極は「こちらにも通したいことがあるが、○○さんとの話だからね」と言わせることです。交渉の前段階において生まれた愛着・親しみの感情は、どの巧妙な交渉術にも勝ると言えるでしょう。

 利害が絡む相手や会社の代表者らと、問題が発生する前の平素から、ゴルフやイベントで交流するのは、この考えの表れだととらえることが出来ます。

信頼関係が破綻している労働紛争の渦中において、有効な「先手を打つ」方法とは?

 労働紛争においては、多くの場合において互いの信頼関係が壊れている(会社側は反発する労働者を煩わしく思い、労働者側は会社の仕打ちに怒りを感じている状態)ため、少しばかりの「先手」では、事態に影響を及ぼしません。

 おそらく会社側の人間には、ハーバード流交渉術のような原則立脚型交渉で臨む気など毛頭ありませんので、労働者側から積極的に、パーソナルな部分でのつながりを作り出していく必要があります。

 そのために考えられる手法は、以下のものでしょう。

  • 同じ職場で長年働いてきた思い出話を利用する
  • 態度を軟化させ相手の意表を突く
  • 最小限の成果(法律の基準)以上のものを望まない姿勢をアピールする

同じ職場で長年働いてきた思い出話を利用する

 「長年」と書きましたが、働いていた期間に大きな問題はありません。要は、会社側の人間と過去に関わった経緯があればよいのです。

 規模の小さな会社においては、過去に高い確率で、会社側の人間と個人的な部分に関わる話をしたことがあると思います。その話をよく思い出し、相手の態度を軟化させるような話題を考えましょう。

 その話題を交渉の直前や、交渉の至るまでの適切な時機に相手に持ち掛けます。

 入社した当時から、現在のような険悪な関係ではなかったはずです。あなたはその会社に入社することができたのですから、きっと採用側たる会社も、採用当時はあなたに期待をしており、その過程で複数回の穏やかなやりとりがあったと思います。

 入社したのがかなり過去でも一向に構いません。交渉前の信頼関係構築は、極めて有効な根回し作業です。利用できるものは、なんでも利用しましょう。

 この「先手」は、きっとどのような企業であっても有効です。相手が人間であれば、過去の穏やかなやり取りの記憶は、事態の悪化を防ぐ頼もしい味方となってくれるでしょう。

態度を軟化させ相手の意表を突く

 労働紛争によって互いの関係が悪化している場合、会社側から歩み寄りをしてくることはまずありません。そして、そのことは会社側も期待していません。

 話し合いによる問題解決を考えている場合は、このような事態は最悪ですが、これはいわばチャンスでもあります。ここでこちらから態度を軟化させてみてはいかがでしょうか。こちら側が態度を変えなければ、事態はほぼ確実に、好転しません。

 事態の好転を一切期待していなかった会社側が、あなたの突然の態度軟化に直面したらどうでしょうか?現実に、それでも態度を硬化させたままの会社側担当者はいます。しかし、あなたの態度軟化によって、心が動かされる人間もいるのです。

 会社側の交渉担当者が、そのような人間であることを期待してみませんか。

最小限の成果(法律の基準)以上のものを望まない姿勢をアピールする

 これは、ハーバード流交渉術の4戦術のうちの一つ、「客観的基準を強調せよ」にも通じる考え方です。

 会社側は、労働者が戦いの姿勢を示してきたことに関して、多くの場合、一抹の不安を感じているのです。その代表的な不安とは、以下のものです。

  • 労働者が労働基準監督署に申告することによって、過去の労基法違反にまで責任の追及が及ばないだろうか
  • 労働者が合同労組(外部労働組合)に駆け込むことによって、大規模な労働争議に発展しないだろうか
  • 労働者が社内で労働組合を結成する原動力となって、労働者が一致団結してしまわないだろうか

 このような不安について、交渉前において労働者自身が払拭をしてあげるのです。「私たちは、法律で定められた基準で扱ってもらえれば、それ以上のことは望まない」という考えを伝えます。

 この考えを伝えられた会社側の交渉担当者は、法律の基準を満たすことで事態の悪化を避けられるのならば、と態度を軟化させます。

 私たち労働者にとって、法律の基準は、最大の味方であるともいえます。この基準を使わない手はありません。法律の基準すら満たそうとしない会社側の人間には、もはや穏健交渉は考えられません。会社側の人間の人間性を試すうえでも、法律の基準は大変役に立ちます。